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クートラスの作品に

筆者:岡 敦
題名:夜の漂着物(クートラスの作品に)
初出:佐伯誠・須山悠里・山内彩子編「Coutelas Journal」5号、2010年8月8日(須山悠里編『Coutelas Journal』エクリ、2010年 所収)

ロベール・クートラス(1930-1985) パリで生まれパリで没した画家。包装紙や拾った紙などを材料に手のひら大の作品を制作。画家本人はそれを「ぼくの夜々 Mes nuits」と呼んでいた。

 

夜の漂着物

 ロベール・クートラスのカード状の作品を見たとき、ぼくの目に、それは薄い木片のように映った。長い年月、屋外で風雨にさらされて、表面の塗料がはがれ、朽ちかけている、何かしら実用的なものの断片のように。あるいは幾年ものあいだ波間を漂った後で、ようやく海岸に打ち寄せられ、砂に埋もれたまま子どもの手に拾い上げられるのを待っている、外国からの漂着物のように見えた。
 
 いずことも知れない遠いところから、あちらを訪れ、こちらに立ち寄りして、ようやくここに届いた。想像もできない長い時間をかけて過去から未来へと旅をする、その半ばで、今、偶然ぼくに出会ったのだ。そんな思いが胸の中に満ちてくる、一枚のカードを間近で見つめているだけなのに。
 
 手に取る。軽くて薄い。外観からは想像もできないほど。ラング・ド・シャみたいだと思う。同じくらいに脆くて、甘くて、そうして同じくらい夢見がちだと。
 
 そして、ぼくは考える。どこかの国の誰かの生活の中で、これはいったいどんなふうに使われていたのだろう。こんなにも華奢な体で、どれほど大切な意味や役割を担っていたのだろう。わからない。とにかく今は元の生活を離れ、かつての意味や役割から解き放たれて、宙に浮いているのだ、その意味作用は。ぼくらは、わかりそうでわからない、何とももどかしい気持ちがする。その曖昧な境遇への共感と親密感とを覚える。そして手の中にあるのに、「遠く隔てられている」感じを。
 
 ――いや、わかっているさ、とぼくはつぶやく。これはクートラスという画家の手になる作品であって、海岸で拾った漂着物なんかではない。でも画家は、そんなふうに見るように作っている。だからぼくは、作家が見せようとするそのとおりに見るんだ。
 
 画面は三つの層でできている。
 
(1)地の層。たいていは縦に荒く筆目が残る。端から端まで、いくつもの筋が川の流れのようにゆるい曲線を描き、ときおり乱れて美しい。さらに別な色や物質が重ねられたりもして、支持体の「物質性」が強調されている。
(2)図の層。少ない色数で一息にあっさりと描いてある。それは見る者に没入を促すような空間ではない。ひとつの画面でひとつの意味を構築してはいない。絵画というより図柄だ。何かしら実用的な意味があったように見えるが、それが何なのかわからない。巨大な作品のカケラが落ちている。あるいは続き物のうちの一点だけが、仕舞い忘れられて、ここに残されている。そんな「断片性」を感じる。
(3)表面の層。埃がついたり、傷ついたり。塗り重ねた絵の具の一部も、ぽろぽろとはがれ落ちたり。これは制作過程に「偶然性」が導入されているのだ。
 
 三つの層の物質性、断片性、偶然性が小さなカードの表面で交わり、一体となって、作り手の意図や思惑から隔てられている感じ、そして、見る人の視線にさらされても決して従順にはならない感じを醸し出す。いわば「外部性」を、つまり「どこか知らないところから来た」感じを。
 
 このカード状の作品群は「ぼくの夜々」と名付けられている。夜は海だ。それは、この身も蓋もない現実の世界と別次元の世界とを、大きな潮の流れでつないでいる。クートラスは、海辺ではなく夜に拾う。遠いどこかの国、過去、それとも未来、よその星、あるいは記憶、空想の街? そんな異世界から流れてきた物が、クートラスの夜に打ち寄せられて、彼は一晩にひとつずつ、それを拾い上げては、また夜の波間に帰してやり、そうして今は、ぼくの手の中に打ち寄せられているのである。

 

 

 

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