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ヘッセ『車輪の下』を読む

筆者:岡 敦
題名:ヘッセ『車輪の下』を読む(生きるための古典 13)
初出:「日経ビジネスオンライン」2011年7月26日

 

青春小説の傑作

 ヘルマン・ヘッセ(1877―1962)はドイツの詩人・小説家。彼は29歳のとき『車輪の下』を書いた。それは今も「青春小説の傑作」と呼ばれている。
 青春小説とは何だろう。
 若い頃に読むと、主人公の言動に自分自身の姿を見る。一頁ごとに共感を深めて、その本は、かけがえのない同伴者となる。しかし、そんな強い思い入れを持ちながらも、成長するにつれて少しずつ気持ちが離れていき、やがて本棚の隅にしまったまま、そこにあることさえ忘れてしまう。そんな「青春時代に限定された親友」のような小説を青春小説というのだろう。
 では、そこに描かれているものは、あくまでも、若い一時期だけの悩みや感覚に過ぎないのか。
 そうではない。若い時に直面した問題を、たいていの大人は、実は解決しないで持ち越している。であるならば、それは人生初期に固有の問題というよりも、一生を通じて繰り返し関わる問題の「原型」なのではないだろうか。
 たとえば、ぼくが初めてこの本を読んだとき、すでに「青春時代」は過ぎ去っていた。しかし、このいささか老けた読者にも、『車輪の下』に描かれている事柄は強く胸に迫ってきたのだった。

不安定な近代人

 田舎町のエリート少年ハンスは、故郷から離れた学校へ進学を果たす。やがてドロップアウトして故郷へ戻るが、その暮らしにも気持ちが乗れないまま死ぬ。これが『車輪の下』のあらすじだ。
 
 あらすじでもわかるように、この小説にはふたつの世界(次のA、B)が描かれていて、主人公はその間を往復する。
 
A 前近代的な共同体(である故郷の暮らし)
B 近代的な競争社会(である学校生活)
 
 近代人は伝統的な共同体を捨てた。共同体の「縛り」を嫌い、自由を求めたのだ。しかし、孤立した個人は不安定になる。自分の人生の意味や自分の行為の価値などが、伝統・慣習・他の共同体成員によって保証されることがなくなるからだ。
 自分の思うとおりにやっているはずなのに、落ち着かない。何をやっても本当にこれでいいのか確信が持てない。不安を覚えて、周囲をキョロキョロと見回してしまう。
 ぼくの人生って、意味がありますよね?
 ぼくのやっていること、大事なことですよね?
 「みんな」に助けを求めるのだ。
 「みんな」が認めてくれるから、ぼくの生には意味がある。
 「みんな」より一歩前に出ているから、ぼくは有能だ。
 「みんな」が憧れるから、ぼくは価値ある人間だ。
 近代人は、このように相対的で競争的な価値観を持ち、それによってその都度の安定を得て生きている。
 
 いや、それが悪いと言うのではない。これは、市場主義、民主主義、大衆(文化)主義の社会に適応して生きるのにふさわしい価値観であるとも言えるから。近代社会にあっては、このような相対的な価値観を身につけることこそ「大人(社会の成員)になる」ことなのだ。
 反対に、もしもこのような価値観に馴染めなかったら、その人は近代社会からの脱落者になってしまうだろう。
 ちょうど『車輪の下』の主人公ハンスのように。

優等生の次なる目標

 もともとハンス少年は、「町の誇り」と言ってもいいほどの優秀な生徒だった。神学校への進学を目指すが、それは地元ではたいへんなエリートコースなのである。
 地元の人々の期待を背負い、ハンスは受験勉強に邁進する。そのせいで、子どもだけが生きることのできるあの魅惑的な時間を失ってしまうのだが。

魚釣り。それはなんといっても、長い小学校時代を通じて、いちばんの楽しみであった。柳のまばらな木かげの中に、じっと立つ。近くで水車のせきが水音を立てている。深い、しずかな水。そして河面にちらつく光。長い釣りざおがゆれるともなくゆれている。魚が餌にかかって、糸をひっぱるときの、なんともいえないよろこび。(実吉捷郎訳)

 これほどにも豊かな自然に囲まれていながら、受験勉強のためにそれとの交流を断ち切ってしまったハンス。大きな犠牲を払って、彼は入学試験に合格する。
 ばんざい! これで目標達成だ!
 ハンスの前には広く明るい未来が開けている。
 彼の人生の次なる目標は……もちろん、校内トップの成績を取ることだ。

前進をやめられない

 なぜなのだろう。
 どうして、合格したハンスの次の目標は、まるで「自動的に」といった調子で、「校内トップになること」に決まってしまうのだろう。
 
 理由は「生徒だって近代人だから」だ。
 競争に参加し、勝つ。それによって、「他人に優る」相対的価値が自分にあることを示したい。
 いや、それだけではない。日々、勝者を目指して精進する、少しずつ勝利へ近づいていく、その「ぼくは日々、前進しているぞ」という実感が、自分を支えてくれるだろう。

夜中に、かるい頭痛を感じながら目をさまして、そのまま寝つかれなくなるとき、いつもかれは、前進しようというあせりにとらわれた。そして自分が同輩たちをどれほど追いこしてしまったか、またいかに先生や校長が、一種の尊敬、いや、嘆賞の念をこめて、自分をながめたか、それを考えるたびに、昂然たる誇りを感じた。(実吉捷郎訳)

 まるで自転車をこぎ続けているみたいだ。
 今はとても順調に前進している。
 しかし、もしも、こぐのをやめたら、どうなる?
 力が尽きたり、意欲が薄れたりして、前へ進めなくなったら?
 静止した自転車のように、たちまち倒れてしまうだろう。
 想像するだけで心が揺れる。真っ黒い不安が、お腹の底からせり上がってくるようだ。
 前進できなくなることへの不安を打ち消すためには、一分として休むことなく、さらに力を入れて、こぎ続け、前進してみせるしかない。

ハンスの心の代弁者

 強迫的に前進を続けるハンス。そのストレスのせいだろうか、彼はいつも頭痛に悩まされている。
 そういうひよわな優等生だからこそ、なのだ。彼が、自分と正反対の人間、つまり競争や相対的価値を侮蔑する不良の同級生、ハイルナアに惹かれるのは。
 ハンスにとってハイルナアは、「ぼんやりと気づいていながら明確に言語化できずにいる自分の心の奥の考え」に形を与えてくれる、かけがえのない存在だ。
 なんの得があるのさ、とハイルナアはハンスに、冷ややかに問いかける。試験でトップになることに何の意味がある? 勉強自体には価値があるとしても、競争に勝つことには何の価値もないだろ?
 これは、ハンス自身の心の奥底の声でもある。

ドロップアウトする

 物語の中ほどで、ハンスは、ついにハイルナアに(つまり、自分の心の声に)同意する。勉強に身が入らなくなり、「脱落者」となる。
 こうして意欲を持てなくなると、それまで心身に蓄積してきた疲労が急に実感されるものだ。ハンスは気力も集中力も失い、体調も崩す。もう自分が何をやっているのかわからなくなってしまった。
 ハンスは退学する。
 
 何てことだろう、あんなにも多くの犠牲を払って進学したというのに!
 ハンスの喪失感は大きい。
 なくしたものは、豊かで名誉ある未来の生活だけではない。過去の犠牲の意味もわからなくなってしまった。かつて受験勉強のために「自然と子どもの融和する世界」を失ったことも、これで完全に無駄だったことになったのだ。

故郷へ帰る

 ハンスは故郷へ帰った。過酷な競争のない共同体に戻り、仕事も始め、恋愛関係も持った。お祭も楽しんだ、それに仲間たちとの馬鹿騒ぎも。傍目には、彼は生まれ故郷で地道に生活を再建しているように見えた。
 しかし、短期間であれ近代社会を生きた人間には、共同体内で共有される固定的な意味を真に受けることは難しい。そんな馴染めない日々の生活は、めんどうで「だるい」ばかりだろう。華やかで活気あふれるイベントも、一時的に気を紛らわすだけ。他の人々と同じように振舞ってはいても、ハンスは自分の生に意味も価値も実感できないのだ。
 そうしてある夜、ハンスは暗い河で溺死する。
 その経緯は明らかではないが、生きる意味を見失い、気力も希望もなくしていたハンスだから、事故でも自殺でもあるいは他殺であったとしても、彼自身にとっては違いはなかっただろう。
 競争社会に乗れず故郷の共同体の生活にも馴染めない、自分の居場所をなくしたハンス。先へも進めず元へも戻れなくなった人間の、これがそのエンディングである。

生き延びる方法は?

 明かりの見えない話だ!
 ヘッセは、いったい何のために、こんな小説を書いたのだろう?
 読者に絶望感を味わわせるため?
 どこにも居場所のない人間には、もう慰めも喜びもなく、やるべきこともない、と将来の暗さを告げるため?
 
 いや、そんなはずはない。
 『車輪の下』には、作者ヘッセの実体験が反映されている、と言われる。ヘッセ自身も神学校を中退し、自殺の一歩手前にいたことがあるのだ。
 しかし、ヘッセはハンスと違う。死んでいない。彼はどうやって生き延びたのだ?
 
 ヘッセは、自分を救ったものについて、多くの発言をしている。たとえば『車輪の下』発表から四半世紀が経ち五十代になったヘッセは、ある手紙に、およそこんなことを記していた。「この生きにくい世界にもかかわらず、自分が死なずにいられた理由はふたつある。ひとつは詩を書くことだが、もうひとつは、自然と深くつながった性格であることだ」と。
 ヘッセは、「自然と深くつながることで、生きる力を得られる」と言っているのである。

美しい自然描写

 ならばヘッセは、自分自身が辿った救いの道を、この小説のなかでも示しているのではないか。そう思いながら『車輪の下』を開けば、多くの美しい自然描写に気づくだろう。

キルヒベルクの大きなぼだい樹が、おそい午後の暑い日ざしのなかで、あわく輝いていた。市場では、ふたつの大きな噴泉が、さらさらと水音を立てながら、きらきら光っていた。つらなる屋根屋根の不規則な線の上から、近くにある、青ぐろいもみのしげった山がのぞいていた。(実吉捷郎訳)

 その場に立つことを想像するだけで、胸の中にさわやかな空気が満ちてくる。こんなに明るく親密な風景が、まるで子ども向けの本の挿絵のように『車輪の下』のあちらにもこちらにも描かれている。

マウルブロンをとりまいている、おびただしい小さな湖水や池には、青じろい秋空や、葉の枯れかけたとねりこや、しらかばや樫の木や、長い夕明かりが、かげをうつしていた。美しい森林じゅうを、晩秋のこがらしが、うめいたり、歓呼したりしながら、吹きまくっていた。そして早くも何回か、うすい霜がおりた。(実吉捷郎訳)

 これは、あの神学校あたりの風景。ハンスには牢獄のように思われた学校も、本から顔を上げて見回してみれば、このような光や風とともにあったのである。
 
 ヘッセは、少年ハンスの破滅へ向かう人生を描きながら、同時に、ハンスに呼びかけているようだ。
 ほら、こんなにも美しい自然が、いつでもどこでもきみのそばで、じっと見守っている。そして、いつも両手を広げて待っていてくれる。あとはきみがそのことに気づいて、自ら歩み寄ればいいだけなんだよ、と。

草上で風の音を聞く

 もしもハンスが、ヘッセの呼びかけに応じられたなら……自然の美しさに心を開いて、疲労を癒し魂を休めて、何とか生き延びることができたかもしれない。
 そして、生き延びることさえできれば、いつかきっと、そうやってしのいだ日々を懐かしく思い返し、微笑を浮かべながら語れるようになっただろう。

草に寝て、僕は麦をわたる風の音を聞く
やわらかな森のように並び立つ麦の群れは
意味もわからぬささやきをかわしながら
やがて空をほとんど覆い隠してしまった
 
いつか時がやって来るだろう
 
そしたら僕はもう悩みも知らず
今はどんなに激しく痛んでいるものも
そのときにはもう過ぎ去っているだろう(ヘッセ「草に寝て」島途健一訳)

 このヘッセの詩、まるで目に涙を浮かべながら微笑んでいるようだ、と思う。こんなヘッセの優しい気持ちが、ひとりの少年の破滅を語る小説『車輪の下』のどのページにも、繊細な筆致で書き込まれている。
 だから一度でも『車輪の下』を読み通した読者は、たとえ救いのない物語に、一瞬、顔を曇らせたとしても、この本を嫌いになったり、投げ捨てたりすることはない。
 それどころか、この本に対して、愛おしいとも切ないともつかない気持ちを抱き、それを心の奥に持ち続け、不意によみがえる子どもの頃の思い出のように、ときどき胸のなかを小さな爪で引っかかれるような感じがして、再び手に取り読みなおすことになるのだろう。

甘すぎる意見なのか

 だが、それにしても……と、思うだろうか。
 どこにも居場所のない人、「先へ進めず、後ろへも戻れない」八方ふさがりの人にかける言葉が、「自然とつながること」だなんて、甘すぎやしないか、と。
 
 ぼくが初めて『車輪の下』を読んだのは、先にも書いたように、大人になってからだった。そのときは、ぼくも納得しにくいと感じた。
 しかし、それから、ぼくは自分の過去の体験を思い出した。
 自分にもあったのだ、「自然とつながることで生きる力を得た」と言える経験が。

あまりにも淡い色彩

 今となっては、もう何十年も前のことだ。
 当時関わっていた政治運動のために、ぼくは逮捕され、街から遠く離れた、ある土地の警察署に勾留されていた。
 
 警察署の二階にあった留置場、その広さ四畳ほどの房に、ぼくはひとりでいた。
 扉がある面を「正面」と呼ぶとしよう。
 正面は、すべて鉄格子で、それに目の細かい金網がかけられていた。
 「鉄格子に縛りつけたシャツで、首を吊って死んだやつがいた。だから自殺防止のために金網を取り付けたんだ」と看守は言った。
 
 房の左右側面はコンクリートむきだしの壁、しかし奥面は違う。
 奥面は(正面と同じく)金網付きの鉄格子で、その向こうに(たぶん見回り用の)細い通路、それから警察署建物の壁があった。その壁の上の方には小窓があり、厚いガラスがはめられているようだった。
 
 取り調べがないとき、ぼくはときどき房の奥に向かって立った。
 ぼくの視線は鉄格子をすり抜け、通路を横切り、壁の小窓を通って外へ、まっすぐに伸びていく。
 しかし小窓は見上げるほどの高さにあったから、ぼくの眼に見えるのは、いつだって変わらず、四角く区切られた空、その明るい灰白色だけだった。

 
 ある午後のことだ。
 小窓を見上げていて、ふと思いついた。
 「もしも視線を小窓に固定したまま、その場で高くジャンプしたら、何か見えるだろうか」
 
 房内で「不審な行動」をとれば看守とトラブルになるかもしれないが、やってみたくなった。
 小窓をじっとにらみつけるようにして視線を固定した。そして、できるだけ高く跳んだ。
 すると一瞬、小窓の下辺のきわに、空とは違う何かが見えた……気がした。
 何が見えたのだろう。
 
 また跳んだ。
 何も見えない。
 看守の目を気にして動作を小さくしたので、跳躍が足りなかったのかもしれない。
 低く身をかがめ、思い切り跳ぶと、跳躍が頂点に達するわずかの時間、小窓の下の縁あたりに、とても淡い青色のかげのようなものが見えた。
 何だろう。
 はっきりしないが、人工物ではないと思われた。
 遠く連なる山々の稜線だったかもしれない。
 それとも、暗い雲かも。
 森の木々の上端部だったかもしれない。

 
 「ぼくが思い切り跳躍しさえすれば、それは見える。鉄格子もコンクリートの壁も通り越して、微かな香りのようなその色彩を、あるいはその何かの気配を、ぼくは感じ取ることができる」
 
 そうわかったときの、ぼくの気持ちをどう言い表そう。
 コンクリートに囲まれたこの場所、警察官たちに追求されている日々、そして、ぼくがここにいる事情。ぼくを取り囲み圧迫していた、そんな微動だにしない重く固い現実が、急に、紙で作った人形と、その舞台装置、その芝居のように軽く薄くなってしまった。そして、それらの何もかもを透かして、大量の明るい外光が、ぼくの心身に射し込んできたように思われたのだ。

 
 ぼくはいつだってあの淡い色彩と、いわば、視線を交わすことができる。
 そんなことを思うだけで、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
 無性に嬉しかった。一瞬見えただけの淡い色彩に、友情のようなもの、仲間意識のようなものまで感じていた。
 
 鉄格子の前でぼくは微笑んでいたと思う。
 いいんだ、看守に見とがめられたって、関係ない。
 ぼくは青いかげを目に映したくて跳ぶ。
 もう一度。
 そしてもう一度。
 だんだん必死のような思いが胸に迫り上がってきて、笑うというより泣き出したい気持ちになっていた。
 
 青い水彩絵の具をたっぷりの水で溶いて、サッとひとはけ、紙の表面をすべらせたような、そんな淡い色彩が、そのときのぼくには、このうえなく美しく、生の意味に関わるほどたいせつな何かだったのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』実吉捷郎訳、岩波文庫、2009年

『ヘルマン・ヘッセ全集16』日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編、島途健一訳、臨川書店、2007年


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