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ヴェイユ『超自然的認識』を読む

筆者:岡 敦
題名:ヴェイユ『超自然的認識』を読む(生きるための古典 12)
初出:「日経ビジネスオンライン」2011年7月12日


消えない問い

 いつまでも問い続ける。
 なぜ?
 そうつぶやいて、気持ちが宙をさまよう。
 なぜ……
 またつぶやいて……一歩も先へ進めない。
 そういうときがある。
 
 「なぜ」と問うているその心の内には、ほんとうは疑問なんてありはしない。
 いきさつ、原因、理由など、もうわかっている。
 そんなことはとっくに知っていて、ちゃんと理解していて……
 それでも心は収まるところを見つけられずに、いつまでもいつまでも、さまよい続けている。
 
 「わかってる……でも、なぜ」
 
 ぼくだって、納得したいんだ。
 うなずける話を、心が元の場所へ戻って落ち着くような話を、誰か聞かせてくれないか。
 
 でも、これ以上何を聞けば、ぼくは納得するのだろう。
 自分でも、わからない。
 
 なぜ……でも、なぜ……
 どこまで聞いても、何を知っても、消えない問い。
 問いたくもないのに問い続ける、答えのない問い、終わらない問い。

駄々っ子のように

 たとえば医師が説明する、「遺伝的要因によって、あなたはこの病気になった」と。
 なるほど、ぼくはそのような遺伝子を持っているのだろう、だから病気になった。
 それは、わかる。
 しかし、それでもなお、「その遺伝子を持っている人が、なぜ『このぼく』でなければいけないのか?」という、問いにもならない問いが残る。この問いには答えなどない。
 
 また、たとえば警察官が「この天候で、あの道を車で走れば、誰でも事故を起こす」と言う。
 もっともな話だ、必ず事故が起こり、深刻な事態に至るだろう。ぼくも、そう思う。
 しかし「その『事故を起こす人』が、なぜ『ぼくにとって大切なあの人』でなければいけないのか?」という問いには、やっぱり答えが与えられない。
 
 「こういう人は、必ずこうなる」という法則があり、まさに自分がその条件を充たしているとしても、「その条件を充たすのは、なぜ、この自分なのか」は偶然としか思えないのだ。
 自分でもわかっている。
 ぼくは今、無茶を言っている。
 ぼくは、なぜ、このぼくなのだ?
 世界は、なぜ、このようなのだ?
 たぶん、そう問うているのと同じだろう。

「ほんとう」

 シモーヌ・ヴェイユの本を開くと、こんなふうに書いてある。

宇宙には絶対に合目的性がないということこそ、宇宙について知るべき本質的な真理である。(渡辺秀訳)

 この世で起こることには目的などない。「何のために」と問うても無駄なのだ。また、こうも記されている。

不幸は、たえず、「なぜ」という問い、本質的に答えのない問いを発せずにいられないようにする。こうして、不幸によって、人は、答えでないものを聞くのである。「本質的な沈黙……」を。(田辺保訳)

 ヴェイユの言葉に背中を押されて考える。
 答えのない問いを問い続けるとき、その逡巡と痛みのなかで、ぼくらはきっと「ほんとう」に触れている。それが「ほんとう」であるのなら、それに伴う苦痛といっしょに、受け入れ、肯定すべきなのだろう。

納得しないまま

 ヴェイユの言葉は、そのひとつひとつが鋼の塊のようで、容易に消化できないのはもちろん、まず飲み込むことさえ難しい。
 しかし、また、この「飲み込みにくさ」「消化できないこと」自体が、ヴェイユの思考を表しているようにも思われる。つまり、理解も納得もできないことを、理解や納得「抜き」で受け入れて生きよ、と。

苦しみの理由を説き明かすのは、苦しみを和らげることになる。だから、苦しみの理由を説き明かすべきではない。(田辺保訳)

 ぼくの目にヴェイユは、答えのない問いを、答えのないままに問い続け、その苦痛を受け入れ、苦痛を自分の糧として思索を深めている人のように見える。答えのない問いが世界や生の意味を空しくしてしまおうとも、それさえも、あるいはそれこそが、真実であるとして受け止めているように見える。

わたくしたちが苦痛をうけるたびごとに、宇宙、世界の秩序、世界の美しさ、被造物の神への服従がわたくしたちの体へはいって来るのだと言える。それは本当のことだ。(渡辺秀訳)

受容と永遠

 ヴェイユは、そう言う。しかし、かつて親しい人の死に直面したとき、あるいは自分の生の破滅や終点を意識したとき、頭の中で反復される「答えのない問い」を、ぼくはその苦痛とともに受け入れることができただろうか。
 
 たいていは、できなかった。見苦しく泣いて喚いて、それから空虚になって、自分が希薄化して透明な気体に変わっていき、空気の中に拡散してしまいそうだった。
 
 けれど、ごくまれに、できたこともあった。
 世界のすべてが宙に浮いて、自分の生が空っぽになって、何もかもがどうでもいい、いや、どうでもいいと思うことさえどうでもよくなったとき。
 まさにそのとき、自分に向かって、しかしこれが「ほんとう」なのだ、今こそ自分は生をきちんと見つめているのだ、と言い聞かせられたことがあった。
 
 そのとき、ぼくは平静の中にいたように思う。世界の酷薄な優しさが、鋭い痛みと哀しい美しさを伴って、少しずつ胸の中に広がってくるようだった。
 そのうえ、その不安定な平安の中で、「永遠」と呼びたくなるようなものに、ふと「予感」するように、触れるともなく触れた気さえした。
 
 それは、錯覚であったかもしれない。
 そうだ、たぶん、ただの勘違いだ。
 しかし、ヴェイユの次の言葉が表すことに、そのとき、ほんの少しだけ、近づいていたと思ってはいけないだろうか。

苦痛は、わたしたちを、時間に釘付けにするが、苦痛の受容によって、わたしたちは、時間の果てへ、永遠の中へとはこばれる。わたしたちは、時間の無限定な長さを通りぬけ、これをのり越える。(田辺保訳)

 

 

付記
 シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)はフランスのユダヤ系の家庭に生まれ、政治、芸術、宗教について、極度に誠実に考え続けた思想家です。
 彼女は身体が弱かったけれど、哲学教師を務めながら厳しい工場労働にも従事し、スペイン内戦では人民戦線に味方して戦いました。フランス全土がドイツ軍に占領される直前にアメリカに亡命しますが、五か月後には対独戦争に加わろうとイギリスに渡り、その地で34年の生涯を終えました。
 ひたすら自分を律し、いっさいの妥協を排して己を行動へ駆り立てていく。思想家というより求道者の生涯でした。

 


引用は下記の本に拠りました。

シモーヌ・ヴェーユ「神を待ちのぞむ」渡辺秀訳(『シモーヌ・ヴェーユ著作集IV 神を待ちのぞむ他』渡辺秀・大木健訳、春秋社、1967年 所収)

シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』田辺保訳、勁草書房、1984年

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995年
 
※初出(日経ビジネスオンライン)では「神を待ちのぞむ」を副題としていましたが、このブログでは文章の最後に引用した『超自然的認識』を題名にしました。

 

 

 

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