筆者:岡 敦
題名:ユイスマンス『さかしま』を読む(生きるための古典 10)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年12月8日
高級な引きこもり
『さかしま』は、「デカダンスのバイブル」とも呼ばれる奇妙な小説だ。1884年刊行、作者はジョリス・カルル・ユイスマンス(1848年生-1907年没)。愛読者は熱烈に愛好していて、この本を生涯最高の一冊と呼ぶ。しかし、嫌いな人はすぐにうんざりして、ページをめくる指も止まりがちだと言う。
主要な登場人物は、主人公のデ・ゼッサントただひとり。彼は貴族の末裔、神経質で華奢な独身男だ。17歳で両親を亡くしたが、さいわい財産はある。
イエズス会の学校で神学やラテン語を学び、卒業後は貴族から娼婦までいろいろな人々と広く深く交際して遊び尽くし、体には病を心には嫌悪感を持つに至った。貴族は退屈で、聖職者は偽善的。思想家は阿呆で、遊び仲間は空っぽだ。女性への情熱さえも、ついには涸れ果てた。だいたい、どいつもこいつも無礼者だし俗物だ。私にとっては大切な思想や芸術を、内心、馬鹿にしていやがる!
デ・ゼッサントは結論を得た。
自分は、精神的な価値を求めている。しかし世間では、精神的な価値など少しも大事にされていない。価値基準は、金や周囲の評判だけ。自分は、そんな現代の生活が嫌いだ。そんな生活に馴染んでいる連中も大嫌いだ。
そして、決めた。
私は隠遁しよう。
まず、交通の便が悪い土地(パリ郊外のフォントネエ)に一軒の家を用意する。もちろん内装にも調度品にも、自分の精神的な趣味を徹底させる。そして、世間とは縁を切って、ひとり静かに生活するんだ。
こうして彼は、いわば「高級な引きこもり」になった。
あたかも一人の隠者のように、彼は孤独の生活を送るのに丁度よい時期にきていたし、生活に疲れ、生活からもはや何物をも期待しない心境になっていた。また、あたかも一人の修道士のように、彼は無限の倦怠、瞑想の必要、もはや俗人どもと共通の何物をも持ちたくない欲求などに、執念く取り憑かれていた。彼にとって俗人とは、功利主義者と馬鹿者の別名にほかならなかった。(澁澤龍彦訳)
小説『さかしま』は、こうして始まったデ・ゼッサントの引きこもり生活の様子や趣味を、ひたすら紹介していく。
その趣味は神秘主義的である。
少し悪魔主義的である。
人間嫌いで自然嫌いで、不健康で内閉的である。
主人公は世間との関わりを断って、そんな趣味の世界に没頭する。だから、この本は頽廃的だと言われたのである。
ヴァーチャル志向
デ・ゼッサントが引きこもったのは、どのような家だろうか。たとえば食堂を見てみよう。彼は、食堂の中に入れ子のようにして、ひとまわり小さい部屋を作った。その部屋の窓は、船の側面にある舷窓に似せてある。そして、この窓の外側、食堂の本来の窓とのあいだに巨大な水槽を設置する。
こうしておいて彼は、自分が二本マストの小帆船の三等室にいるものと想像し、時計の部分品のように組み立てられた、機械仕掛の精巧な魚たちが、舷窓のガラスの前を去来したり、模造の海草にからみついたりするさまを物珍しそうに眺めるのであった。(澁澤龍彦訳)
自宅の食堂に居ながらにして、大海原を航海する船中の気分が味わえる仕組みだ。
デ・ゼッサントは思う。現実の中で欲望を満たすよりも、人工的な仕掛けと想像力によって、欲望を満たすほうがいい。むしろ、そのほうがずっと快適だ 。
要はただ、いかに振舞い、いかにして精神を一点に集中するかにある。幻覚を生ぜしめ、現実そのものに現実の夢を代置し得るまでに、一事に没頭するには、いかにすればよいかにある。
かくてデ・ゼッサントの眼には、人工こそ人間の天才の標識と思われたのであった。(澁澤龍彦訳)
こうしてさまざまな仕掛けを施し、自分の趣味で埋め尽くされた屋敷の中で、デ・ゼッサントは好みの絵画や書物(それらはどれも、この世ならぬ境地へ誘ってくれる、超越的な、神秘的な、あるいは幻想的な作品だ)とともに時間を過ごす。これが、デ・ゼッサントの「人工楽園」だ。
この「ヴァーチャル志向」は、今となっては、さほど奇異な印象は受けない。というより、誰でも素直に憧れてしまいそうだ。しかし、この小説が発表された十九世紀末の読者にとっては、何とも妖しい、そしてあまりにも不健康な欲望のように思われただろう。
心身を病んでいく
さて、しかし、問題は主人公は幸福かどうかだ。こうして暮らすデ・ゼッサントは、いったい、満足しているのか?
最初は、満足していると思っていた。
ところが、結局は、違ったのである。
隠遁生活を始めてからというもの、健康状態は悪化していくばかりだ。体だけなら、まだいい。身体以上に精神が乱れていく。日が経つにつれてますます不安定になっていき、ついには、隠遁生活をやめてパリへ戻るよう医者に説得される始末だ。
なぜだろう。
自分の趣味を全面開花させて、それに浸って暮らしている、そんなにもやりたいほうだいの生き方なのに、何が彼を苦しめるのだろう。
希望と断念の間で
実は、趣味に浸って生きることなど、彼の本当の望みではないのである。彼が最も強く求めているもの、それは、精神的なもの、超越的なものであり、具体的に言えばカトリック的なものだ。信仰の世界を自分自身の世界として、その中で生きていくことだ。
デ・ゼッサントは、そんな自分の本当の望みを、実は、自覚している。人間嫌いで傲慢で悪魔主義的な趣味に浸りながら、本心では自分はカトリック信者として生きていきたいのだと彼はわかっている。
だが、できない、と彼は血を吐く思いで断念する。何しろ今は科学の時代だ。自分の知性からして、また性格からして、カトリックの教義を本気で信じるなど、とうていできない。できるはずがない。
それで本当の望みは胸の奥にしまって忘れるように努め、彼は資産と暇にまかせて、中世カトリックふうの気分を醸し出す神秘的な趣味に走る。外界のノイズを遮断しているそのさまは、まさに僧院に籠もる修道僧のようだ。
だが趣味は、どれほど徹底しようと趣味だ。本物ではない。甘く、ぬるく、不徹底な、代替物に過ぎない。デ・ゼッサントは、心の奥底では代替物に満足できずいる、本物を求めて煩悶する。
でも、どうしろって言うんだ? 私は、本当の信仰など持てる人間ではない!
前進もできなければ完全撤退もできない、中途半端で宙ぶらりんの気分のまま、彼の心身は弱っていくのである。
病んだデ・ゼッサントは、療養のためパリへ戻ることにする。現代の生活へ、俗世間へと帰っていくのだ。そうしなければ、生命も危ぶまれると医者が言うのだから。
『さかしま』は、こうして主人公の悲鳴のような独白で幕を閉じる。
主よ、疑いを抱くキリスト教徒を憐れみたまえ、信じようと欲して信じられない信仰者を憐れみたまえ。古い希望の慰めの光ももはや照らさぬ大空の下を、たった一人で、夜のなかに舟出していく人生の罪囚を憐れみたまえ!(澁澤龍彦訳)
これは自滅の物語
『さかしま』は、人工楽園やデカダンスを魅力的に描いた作品だろうか。
そうではない。まったく違う。
主人公はドタバタと見苦しく動き回り、記憶や沸き立つ思いにかき乱されて、少しも幸福ではない。彼は、金と暇と教養にまかせて好きなように振る舞いながら、実際は、身も心もボロボロになるまでみずからを痛めつけていく。
これは破滅の物語、愚か者の自滅の物語だ。
破滅の原因はわかっている。
自分が心の底で望んでいることを、しかし、決してやろうとしないから。その代わりに、趣味として、代替的に、浅く、不徹底に手を染めるから。そうやって、自分をごまかしているから。自分の本当の希望を押し隠し、どこまでも自己欺瞞の世界に浸って生きようとする男に、安らぎの日々など来るわけがない。
こうして主人公の批判を書いていると、ぼくの気持ちは暗くなる。資産や感性や学識の面では天と地ほどの隔たりがありながら、しかし、悪い面に限っては、ぼくは彼と同じなのだ。
否定面だけ同じだ
ぼくは自分の考えや感情を、希望や判断を、ずっと黙って過ごしてきた。通じるはずのない言葉を口にするなんて馬鹿げている。世間を知らない子供のやることだ。笑顔とお愛想で適当にお茶を濁すのが大人のマナーってもんだ。
だいたい「自分の考え」「自分の感情」なんて言うけれど、そんなもの、人に言うほどの価値はあるのか? 希望が通ったとして実行する自信はあるのか? 才能は? 成功の目算は? 何もないなら、黙っていろ。
そのとおりだ。ぼくには、才能も自信も何もない。やはり黙っていたほうがよさそうだ。黙って……黙っていれば、どうなるのか? ぼくは倒れる。身体も精神もストレスに弱い、そんな情けないところも、ぼくはデ・ゼッサントと同じだ。数年おきに、一日中、吐きまくる。家にいるときも、外出中のときもある。倒れて、吐き続けて、ついに救急車で運ばれたことも何度かある。
それでもぼくは変わらずに、ただ、日々をやり過ごしてきた。ぼくが何かを言ったり書いたりしたところで、どうせ通じるわけがない、できないことを望むのは馬鹿げている、それでもなお押し通そうというほどの自信もない……。
まったく、金もセンスも教養もない、否定面だけのデ・ゼッサント!
謙虚ではなく傲慢
しかし、今は、こう思う。
こうしてときどき倒れながら生きていくのなら、それより、いっそ大失敗して、最後に一回、完全に倒れてしまったほうがマシではないか。どうせ通じないと大人らしく苦笑いと愛想笑いで暮らしていくなら、子供じみた馬鹿笑いと悔し泣きで過ごすほうがずっといいだろう。周囲の人々に「まともな大人」と見られて敬意を払われるより、「青臭い馬鹿」とさげすまれるほうが、ずっと楽しいに違いない!
これがぼくの本当の望みだ。
だから今、この連載でも、ぼくは恥知らずなことを思い切り書いている。
これで思い切りだって?
まだ、足りない。
もっと、もっと、だ。
ひるむ自分にそう言い聞かせて、目をつぶり、暴走車に乗った気分で書いている。
すると、どうだろう。友人や編集者、そして読者のみなさんに、何かが通じているようではないか!
どうせ通じないと思って遠慮がちに話しては、「やっぱり通じなかった」と下を向き、口にしたことを悔やんできた言葉、言葉、言葉……。それなのに、ヤケクソになって思い切り書けば、通じるのだ。いや、通じるだけではない、読んだ人たちは、同意したり共感したり励ましたりしてくれる。
そうだ。「他人に通じない」と決めつけるなんて、ぼくは傲慢だった。人間が持っている共感したり手を繋いだりする可能性を軽んじていたのだ。それに、「自分にはできない」などと思うのも、やっぱり全然、謙虚ではない、傲慢だ。自分に何ができるかなんて、そんな判断、ぼくごときにできるはずがない。
デ・ゼッサントだって、そう。
自分はカトリック信者にはなれないと決めつけ、代替物でごまかそうとして、ついに体を壊す。そんな思いをするぐらいなら、やってみるべきだった。
実際、作者ユイスマンスだって、『さかしま』を書いた八年後、カトリックに改宗してトラピスト修道院に籠もっている。世間はもちろんびっくりして大騒ぎしたけれど、そんなところで遠慮してどうなるって言うんだ?
注
引用は下記の本に拠りました。
J・K・ユイスマンス『さかしま』澁澤龍彦、河出文庫、2002年
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