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ヘッセ『車輪の下』を読む

筆者:岡 敦
題名:ヘッセ『車輪の下』を読む(生きるための古典 13)
初出:「日経ビジネスオンライン」2011年7月26日

 

青春小説の傑作

 ヘルマン・ヘッセ(1877―1962)はドイツの詩人・小説家。彼は29歳のとき『車輪の下』を書いた。それは今も「青春小説の傑作」と呼ばれている。
 青春小説とは何だろう。
 若い頃に読むと、主人公の言動に自分自身の姿を見る。一頁ごとに共感を深めて、その本は、かけがえのない同伴者となる。しかし、そんな強い思い入れを持ちながらも、成長するにつれて少しずつ気持ちが離れていき、やがて本棚の隅にしまったまま、そこにあることさえ忘れてしまう。そんな「青春時代に限定された親友」のような小説を青春小説というのだろう。
 では、そこに描かれているものは、あくまでも、若い一時期だけの悩みや感覚に過ぎないのか。
 そうではない。若い時に直面した問題を、たいていの大人は、実は解決しないで持ち越している。であるならば、それは人生初期に固有の問題というよりも、一生を通じて繰り返し関わる問題の「原型」なのではないだろうか。
 たとえば、ぼくが初めてこの本を読んだとき、すでに「青春時代」は過ぎ去っていた。しかし、このいささか老けた読者にも、『車輪の下』に描かれている事柄は強く胸に迫ってきたのだった。

不安定な近代人

 田舎町のエリート少年ハンスは、故郷から離れた学校へ進学を果たす。やがてドロップアウトして故郷へ戻るが、その暮らしにも気持ちが乗れないまま死ぬ。これが『車輪の下』のあらすじだ。
 
 あらすじでもわかるように、この小説にはふたつの世界(次のA、B)が描かれていて、主人公はその間を往復する。
 
A 前近代的な共同体(である故郷の暮らし)
B 近代的な競争社会(である学校生活)
 
 近代人は伝統的な共同体を捨てた。共同体の「縛り」を嫌い、自由を求めたのだ。しかし、孤立した個人は不安定になる。自分の人生の意味や自分の行為の価値などが、伝統・慣習・他の共同体成員によって保証されることがなくなるからだ。
 自分の思うとおりにやっているはずなのに、落ち着かない。何をやっても本当にこれでいいのか確信が持てない。不安を覚えて、周囲をキョロキョロと見回してしまう。
 ぼくの人生って、意味がありますよね?
 ぼくのやっていること、大事なことですよね?
 「みんな」に助けを求めるのだ。
 「みんな」が認めてくれるから、ぼくの生には意味がある。
 「みんな」より一歩前に出ているから、ぼくは有能だ。
 「みんな」が憧れるから、ぼくは価値ある人間だ。
 近代人は、このように相対的で競争的な価値観を持ち、それによってその都度の安定を得て生きている。
 
 いや、それが悪いと言うのではない。これは、市場主義、民主主義、大衆(文化)主義の社会に適応して生きるのにふさわしい価値観であるとも言えるから。近代社会にあっては、このような相対的な価値観を身につけることこそ「大人(社会の成員)になる」ことなのだ。
 反対に、もしもこのような価値観に馴染めなかったら、その人は近代社会からの脱落者になってしまうだろう。
 ちょうど『車輪の下』の主人公ハンスのように。

優等生の次なる目標

 もともとハンス少年は、「町の誇り」と言ってもいいほどの優秀な生徒だった。神学校への進学を目指すが、それは地元ではたいへんなエリートコースなのである。
 地元の人々の期待を背負い、ハンスは受験勉強に邁進する。そのせいで、子どもだけが生きることのできるあの魅惑的な時間を失ってしまうのだが。

魚釣り。それはなんといっても、長い小学校時代を通じて、いちばんの楽しみであった。柳のまばらな木かげの中に、じっと立つ。近くで水車のせきが水音を立てている。深い、しずかな水。そして河面にちらつく光。長い釣りざおがゆれるともなくゆれている。魚が餌にかかって、糸をひっぱるときの、なんともいえないよろこび。(実吉捷郎訳)

 これほどにも豊かな自然に囲まれていながら、受験勉強のためにそれとの交流を断ち切ってしまったハンス。大きな犠牲を払って、彼は入学試験に合格する。
 ばんざい! これで目標達成だ!
 ハンスの前には広く明るい未来が開けている。
 彼の人生の次なる目標は……もちろん、校内トップの成績を取ることだ。

前進をやめられない

 なぜなのだろう。
 どうして、合格したハンスの次の目標は、まるで「自動的に」といった調子で、「校内トップになること」に決まってしまうのだろう。
 
 理由は「生徒だって近代人だから」だ。
 競争に参加し、勝つ。それによって、「他人に優る」相対的価値が自分にあることを示したい。
 いや、それだけではない。日々、勝者を目指して精進する、少しずつ勝利へ近づいていく、その「ぼくは日々、前進しているぞ」という実感が、自分を支えてくれるだろう。

夜中に、かるい頭痛を感じながら目をさまして、そのまま寝つかれなくなるとき、いつもかれは、前進しようというあせりにとらわれた。そして自分が同輩たちをどれほど追いこしてしまったか、またいかに先生や校長が、一種の尊敬、いや、嘆賞の念をこめて、自分をながめたか、それを考えるたびに、昂然たる誇りを感じた。(実吉捷郎訳)

 まるで自転車をこぎ続けているみたいだ。
 今はとても順調に前進している。
 しかし、もしも、こぐのをやめたら、どうなる?
 力が尽きたり、意欲が薄れたりして、前へ進めなくなったら?
 静止した自転車のように、たちまち倒れてしまうだろう。
 想像するだけで心が揺れる。真っ黒い不安が、お腹の底からせり上がってくるようだ。
 前進できなくなることへの不安を打ち消すためには、一分として休むことなく、さらに力を入れて、こぎ続け、前進してみせるしかない。

ハンスの心の代弁者

 強迫的に前進を続けるハンス。そのストレスのせいだろうか、彼はいつも頭痛に悩まされている。
 そういうひよわな優等生だからこそ、なのだ。彼が、自分と正反対の人間、つまり競争や相対的価値を侮蔑する不良の同級生、ハイルナアに惹かれるのは。
 ハンスにとってハイルナアは、「ぼんやりと気づいていながら明確に言語化できずにいる自分の心の奥の考え」に形を与えてくれる、かけがえのない存在だ。
 なんの得があるのさ、とハイルナアはハンスに、冷ややかに問いかける。試験でトップになることに何の意味がある? 勉強自体には価値があるとしても、競争に勝つことには何の価値もないだろ?
 これは、ハンス自身の心の奥底の声でもある。

ドロップアウトする

 物語の中ほどで、ハンスは、ついにハイルナアに(つまり、自分の心の声に)同意する。勉強に身が入らなくなり、「脱落者」となる。
 こうして意欲を持てなくなると、それまで心身に蓄積してきた疲労が急に実感されるものだ。ハンスは気力も集中力も失い、体調も崩す。もう自分が何をやっているのかわからなくなってしまった。
 ハンスは退学する。
 
 何てことだろう、あんなにも多くの犠牲を払って進学したというのに!
 ハンスの喪失感は大きい。
 なくしたものは、豊かで名誉ある未来の生活だけではない。過去の犠牲の意味もわからなくなってしまった。かつて受験勉強のために「自然と子どもの融和する世界」を失ったことも、これで完全に無駄だったことになったのだ。

故郷へ帰る

 ハンスは故郷へ帰った。過酷な競争のない共同体に戻り、仕事も始め、恋愛関係も持った。お祭も楽しんだ、それに仲間たちとの馬鹿騒ぎも。傍目には、彼は生まれ故郷で地道に生活を再建しているように見えた。
 しかし、短期間であれ近代社会を生きた人間には、共同体内で共有される固定的な意味を真に受けることは難しい。そんな馴染めない日々の生活は、めんどうで「だるい」ばかりだろう。華やかで活気あふれるイベントも、一時的に気を紛らわすだけ。他の人々と同じように振舞ってはいても、ハンスは自分の生に意味も価値も実感できないのだ。
 そうしてある夜、ハンスは暗い河で溺死する。
 その経緯は明らかではないが、生きる意味を見失い、気力も希望もなくしていたハンスだから、事故でも自殺でもあるいは他殺であったとしても、彼自身にとっては違いはなかっただろう。
 競争社会に乗れず故郷の共同体の生活にも馴染めない、自分の居場所をなくしたハンス。先へも進めず元へも戻れなくなった人間の、これがそのエンディングである。

生き延びる方法は?

 明かりの見えない話だ!
 ヘッセは、いったい何のために、こんな小説を書いたのだろう?
 読者に絶望感を味わわせるため?
 どこにも居場所のない人間には、もう慰めも喜びもなく、やるべきこともない、と将来の暗さを告げるため?
 
 いや、そんなはずはない。
 『車輪の下』には、作者ヘッセの実体験が反映されている、と言われる。ヘッセ自身も神学校を中退し、自殺の一歩手前にいたことがあるのだ。
 しかし、ヘッセはハンスと違う。死んでいない。彼はどうやって生き延びたのだ?
 
 ヘッセは、自分を救ったものについて、多くの発言をしている。たとえば『車輪の下』発表から四半世紀が経ち五十代になったヘッセは、ある手紙に、およそこんなことを記していた。「この生きにくい世界にもかかわらず、自分が死なずにいられた理由はふたつある。ひとつは詩を書くことだが、もうひとつは、自然と深くつながった性格であることだ」と。
 ヘッセは、「自然と深くつながることで、生きる力を得られる」と言っているのである。

美しい自然描写

 ならばヘッセは、自分自身が辿った救いの道を、この小説のなかでも示しているのではないか。そう思いながら『車輪の下』を開けば、多くの美しい自然描写に気づくだろう。

キルヒベルクの大きなぼだい樹が、おそい午後の暑い日ざしのなかで、あわく輝いていた。市場では、ふたつの大きな噴泉が、さらさらと水音を立てながら、きらきら光っていた。つらなる屋根屋根の不規則な線の上から、近くにある、青ぐろいもみのしげった山がのぞいていた。(実吉捷郎訳)

 その場に立つことを想像するだけで、胸の中にさわやかな空気が満ちてくる。こんなに明るく親密な風景が、まるで子ども向けの本の挿絵のように『車輪の下』のあちらにもこちらにも描かれている。

マウルブロンをとりまいている、おびただしい小さな湖水や池には、青じろい秋空や、葉の枯れかけたとねりこや、しらかばや樫の木や、長い夕明かりが、かげをうつしていた。美しい森林じゅうを、晩秋のこがらしが、うめいたり、歓呼したりしながら、吹きまくっていた。そして早くも何回か、うすい霜がおりた。(実吉捷郎訳)

 これは、あの神学校あたりの風景。ハンスには牢獄のように思われた学校も、本から顔を上げて見回してみれば、このような光や風とともにあったのである。
 
 ヘッセは、少年ハンスの破滅へ向かう人生を描きながら、同時に、ハンスに呼びかけているようだ。
 ほら、こんなにも美しい自然が、いつでもどこでもきみのそばで、じっと見守っている。そして、いつも両手を広げて待っていてくれる。あとはきみがそのことに気づいて、自ら歩み寄ればいいだけなんだよ、と。

草上で風の音を聞く

 もしもハンスが、ヘッセの呼びかけに応じられたなら……自然の美しさに心を開いて、疲労を癒し魂を休めて、何とか生き延びることができたかもしれない。
 そして、生き延びることさえできれば、いつかきっと、そうやってしのいだ日々を懐かしく思い返し、微笑を浮かべながら語れるようになっただろう。

草に寝て、僕は麦をわたる風の音を聞く
やわらかな森のように並び立つ麦の群れは
意味もわからぬささやきをかわしながら
やがて空をほとんど覆い隠してしまった
 
いつか時がやって来るだろう
 
そしたら僕はもう悩みも知らず
今はどんなに激しく痛んでいるものも
そのときにはもう過ぎ去っているだろう(ヘッセ「草に寝て」島途健一訳)

 このヘッセの詩、まるで目に涙を浮かべながら微笑んでいるようだ、と思う。こんなヘッセの優しい気持ちが、ひとりの少年の破滅を語る小説『車輪の下』のどのページにも、繊細な筆致で書き込まれている。
 だから一度でも『車輪の下』を読み通した読者は、たとえ救いのない物語に、一瞬、顔を曇らせたとしても、この本を嫌いになったり、投げ捨てたりすることはない。
 それどころか、この本に対して、愛おしいとも切ないともつかない気持ちを抱き、それを心の奥に持ち続け、不意によみがえる子どもの頃の思い出のように、ときどき胸のなかを小さな爪で引っかかれるような感じがして、再び手に取り読みなおすことになるのだろう。

甘すぎる意見なのか

 だが、それにしても……と、思うだろうか。
 どこにも居場所のない人、「先へ進めず、後ろへも戻れない」八方ふさがりの人にかける言葉が、「自然とつながること」だなんて、甘すぎやしないか、と。
 
 ぼくが初めて『車輪の下』を読んだのは、先にも書いたように、大人になってからだった。そのときは、ぼくも納得しにくいと感じた。
 しかし、それから、ぼくは自分の過去の体験を思い出した。
 自分にもあったのだ、「自然とつながることで生きる力を得た」と言える経験が。

あまりにも淡い色彩

 今となっては、もう何十年も前のことだ。
 当時関わっていた政治運動のために、ぼくは逮捕され、街から遠く離れた、ある土地の警察署に勾留されていた。
 
 警察署の二階にあった留置場、その広さ四畳ほどの房に、ぼくはひとりでいた。
 扉がある面を「正面」と呼ぶとしよう。
 正面は、すべて鉄格子で、それに目の細かい金網がかけられていた。
 「鉄格子に縛りつけたシャツで、首を吊って死んだやつがいた。だから自殺防止のために金網を取り付けたんだ」と看守は言った。
 
 房の左右側面はコンクリートむきだしの壁、しかし奥面は違う。
 奥面は(正面と同じく)金網付きの鉄格子で、その向こうに(たぶん見回り用の)細い通路、それから警察署建物の壁があった。その壁の上の方には小窓があり、厚いガラスがはめられているようだった。
 
 取り調べがないとき、ぼくはときどき房の奥に向かって立った。
 ぼくの視線は鉄格子をすり抜け、通路を横切り、壁の小窓を通って外へ、まっすぐに伸びていく。
 しかし小窓は見上げるほどの高さにあったから、ぼくの眼に見えるのは、いつだって変わらず、四角く区切られた空、その明るい灰白色だけだった。

 
 ある午後のことだ。
 小窓を見上げていて、ふと思いついた。
 「もしも視線を小窓に固定したまま、その場で高くジャンプしたら、何か見えるだろうか」
 
 房内で「不審な行動」をとれば看守とトラブルになるかもしれないが、やってみたくなった。
 小窓をじっとにらみつけるようにして視線を固定した。そして、できるだけ高く跳んだ。
 すると一瞬、小窓の下辺のきわに、空とは違う何かが見えた……気がした。
 何が見えたのだろう。
 
 また跳んだ。
 何も見えない。
 看守の目を気にして動作を小さくしたので、跳躍が足りなかったのかもしれない。
 低く身をかがめ、思い切り跳ぶと、跳躍が頂点に達するわずかの時間、小窓の下の縁あたりに、とても淡い青色のかげのようなものが見えた。
 何だろう。
 はっきりしないが、人工物ではないと思われた。
 遠く連なる山々の稜線だったかもしれない。
 それとも、暗い雲かも。
 森の木々の上端部だったかもしれない。

 
 「ぼくが思い切り跳躍しさえすれば、それは見える。鉄格子もコンクリートの壁も通り越して、微かな香りのようなその色彩を、あるいはその何かの気配を、ぼくは感じ取ることができる」
 
 そうわかったときの、ぼくの気持ちをどう言い表そう。
 コンクリートに囲まれたこの場所、警察官たちに追求されている日々、そして、ぼくがここにいる事情。ぼくを取り囲み圧迫していた、そんな微動だにしない重く固い現実が、急に、紙で作った人形と、その舞台装置、その芝居のように軽く薄くなってしまった。そして、それらの何もかもを透かして、大量の明るい外光が、ぼくの心身に射し込んできたように思われたのだ。

 
 ぼくはいつだってあの淡い色彩と、いわば、視線を交わすことができる。
 そんなことを思うだけで、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
 無性に嬉しかった。一瞬見えただけの淡い色彩に、友情のようなもの、仲間意識のようなものまで感じていた。
 
 鉄格子の前でぼくは微笑んでいたと思う。
 いいんだ、看守に見とがめられたって、関係ない。
 ぼくは青いかげを目に映したくて跳ぶ。
 もう一度。
 そしてもう一度。
 だんだん必死のような思いが胸に迫り上がってきて、笑うというより泣き出したい気持ちになっていた。
 
 青い水彩絵の具をたっぷりの水で溶いて、サッとひとはけ、紙の表面をすべらせたような、そんな淡い色彩が、そのときのぼくには、このうえなく美しく、生の意味に関わるほどたいせつな何かだったのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』実吉捷郎訳、岩波文庫、2009年

『ヘルマン・ヘッセ全集16』日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編、島途健一訳、臨川書店、2007年


(C) 2022 OKA ATSUSHI

最後の会話

筆者:岡 敦
題名:最後の会話
初出:「日経ビジネス電子版」2020年8月6日

 

 兄と最後に話をしたのは、いつだったろう。
 七月の中頃、兄が再入院(最後の入院)する前だったろうか。
 たしか、ぼくは自分の部屋のなか、机の前に立ち、茶色いドアにぼんやりと視線を向けながら、三十分ぐらい電話を耳にあてていたのだった。
 内容は、まさかそれが最後になるとは考えていなかったから、マルクスの土台上部構造論だの、マンハイムのイデオロギー概念だのと、今こうなってから振り返ると、まったくどうでもいい、つまらないことを、しかしそのときは互いに少し興奮しながら話していたように思う。
 しかし話題は少しずつ移り、やがて、どういう流れだったのか覚えていないけれど(そうだ、その頃は母が高齢者施設に入居する、その準備をしていたはずだから、そんな話題の直後だったかもしれない)、兄が突然大きな声ではっきりと言った。
 
「あぁ、歳をとるってやなもんだな」
 
 ぼくは、ひどく驚いてしまった。
 ぼくたちの育った家は、巨額の負債を背負ったり離散したりした。その前にも後にもいろいろな経験をしたけれど、兄もぼくも、それらのことを怒ったり嘆いたり恨んだりしたことは、ただの一度だってなかった。
 誰に教わったわけでもないけれど、子供の頃からずっと、ぼくらは「必然的にやってくるものを拒む」ようなことはしなかったのだ。たとえそれが、どれほどネガティブなものであったとしても。
 
 来るものは来るのだから、嫌がってもしょうがないだろ。嫌がるだけ損だ。それは来るものだと認めたうえで、さあどう受けて立とうかと考えようぜ。
 
 とりわけ兄は、そうだった。来るものが来る、それは兄にとっては、新しいゲームの始まりのようなもの。さあどんなふうに乗り切ってやろうか、どう対応すれば面白いだろう、そうだ、こうやってやっつけてやれば、きっとみんな驚くぞ。

 などと想像して目を輝かせ、ワクワクする気持ちを抑えられずにいる。いつも兄は、そんなふうに見えたのだった。
 その兄が、避けることのできない「老化」について、嫌だ、と強い調子で拒んでいる。大袈裟に言えば、その言葉は、ぼくの耳に非現実的な響きを残した。
 戸惑った。兄が今、何を想い何を考えているのか、このときは想像もできずにいた。
 返す言葉も思い浮かばなくて、ただ小さな声で、「だね」と曖昧な相槌を打った。
 兄は、なおも、たかぶる想いが収まらないらしく、追撃するような勢いで「歳はとりたくねえなあ」と続けた。
 応えられずに、ぼくは黙った。
 兄も口をつぐんだ。
 そして、少し間をおくと、兄は普段の自分を取り戻して、自嘲気味に笑いながら、まあ、オレのこの病気も老化かもしれないけど、と付け加えたのだった。

 


付記
2020年7月31日、私は兄(岡康道)を亡くしました。この文章は、「日経ビジネス電子版」が編んでくれた追悼記事(2020年8月6日「旅立つには早すぎる~追悼 岡康道さん」)のために書きました。

 

 


(C) 2022 OKA ATSUSHI

ヴェイユ『超自然的認識』を読む

筆者:岡 敦
題名:ヴェイユ『超自然的認識』を読む(生きるための古典 12)
初出:「日経ビジネスオンライン」2011年7月12日


消えない問い

 いつまでも問い続ける。
 なぜ?
 そうつぶやいて、気持ちが宙をさまよう。
 なぜ……
 またつぶやいて……一歩も先へ進めない。
 そういうときがある。
 
 「なぜ」と問うているその心の内には、ほんとうは疑問なんてありはしない。
 いきさつ、原因、理由など、もうわかっている。
 そんなことはとっくに知っていて、ちゃんと理解していて……
 それでも心は収まるところを見つけられずに、いつまでもいつまでも、さまよい続けている。
 
 「わかってる……でも、なぜ」
 
 ぼくだって、納得したいんだ。
 うなずける話を、心が元の場所へ戻って落ち着くような話を、誰か聞かせてくれないか。
 
 でも、これ以上何を聞けば、ぼくは納得するのだろう。
 自分でも、わからない。
 
 なぜ……でも、なぜ……
 どこまで聞いても、何を知っても、消えない問い。
 問いたくもないのに問い続ける、答えのない問い、終わらない問い。

駄々っ子のように

 たとえば医師が説明する、「遺伝的要因によって、あなたはこの病気になった」と。
 なるほど、ぼくはそのような遺伝子を持っているのだろう、だから病気になった。
 それは、わかる。
 しかし、それでもなお、「その遺伝子を持っている人が、なぜ『このぼく』でなければいけないのか?」という、問いにもならない問いが残る。この問いには答えなどない。
 
 また、たとえば警察官が「この天候で、あの道を車で走れば、誰でも事故を起こす」と言う。
 もっともな話だ、必ず事故が起こり、深刻な事態に至るだろう。ぼくも、そう思う。
 しかし「その『事故を起こす人』が、なぜ『ぼくにとって大切なあの人』でなければいけないのか?」という問いには、やっぱり答えが与えられない。
 
 「こういう人は、必ずこうなる」という法則があり、まさに自分がその条件を充たしているとしても、「その条件を充たすのは、なぜ、この自分なのか」は偶然としか思えないのだ。
 自分でもわかっている。
 ぼくは今、無茶を言っている。
 ぼくは、なぜ、このぼくなのだ?
 世界は、なぜ、このようなのだ?
 たぶん、そう問うているのと同じだろう。

「ほんとう」

 シモーヌ・ヴェイユの本を開くと、こんなふうに書いてある。

宇宙には絶対に合目的性がないということこそ、宇宙について知るべき本質的な真理である。(渡辺秀訳)

 この世で起こることには目的などない。「何のために」と問うても無駄なのだ。また、こうも記されている。

不幸は、たえず、「なぜ」という問い、本質的に答えのない問いを発せずにいられないようにする。こうして、不幸によって、人は、答えでないものを聞くのである。「本質的な沈黙……」を。(田辺保訳)

 ヴェイユの言葉に背中を押されて考える。
 答えのない問いを問い続けるとき、その逡巡と痛みのなかで、ぼくらはきっと「ほんとう」に触れている。それが「ほんとう」であるのなら、それに伴う苦痛といっしょに、受け入れ、肯定すべきなのだろう。

納得しないまま

 ヴェイユの言葉は、そのひとつひとつが鋼の塊のようで、容易に消化できないのはもちろん、まず飲み込むことさえ難しい。
 しかし、また、この「飲み込みにくさ」「消化できないこと」自体が、ヴェイユの思考を表しているようにも思われる。つまり、理解も納得もできないことを、理解や納得「抜き」で受け入れて生きよ、と。

苦しみの理由を説き明かすのは、苦しみを和らげることになる。だから、苦しみの理由を説き明かすべきではない。(田辺保訳)

 ぼくの目にヴェイユは、答えのない問いを、答えのないままに問い続け、その苦痛を受け入れ、苦痛を自分の糧として思索を深めている人のように見える。答えのない問いが世界や生の意味を空しくしてしまおうとも、それさえも、あるいはそれこそが、真実であるとして受け止めているように見える。

わたくしたちが苦痛をうけるたびごとに、宇宙、世界の秩序、世界の美しさ、被造物の神への服従がわたくしたちの体へはいって来るのだと言える。それは本当のことだ。(渡辺秀訳)

受容と永遠

 ヴェイユは、そう言う。しかし、かつて親しい人の死に直面したとき、あるいは自分の生の破滅や終点を意識したとき、頭の中で反復される「答えのない問い」を、ぼくはその苦痛とともに受け入れることができただろうか。
 
 たいていは、できなかった。見苦しく泣いて喚いて、それから空虚になって、自分が希薄化して透明な気体に変わっていき、空気の中に拡散してしまいそうだった。
 
 けれど、ごくまれに、できたこともあった。
 世界のすべてが宙に浮いて、自分の生が空っぽになって、何もかもがどうでもいい、いや、どうでもいいと思うことさえどうでもよくなったとき。
 まさにそのとき、自分に向かって、しかしこれが「ほんとう」なのだ、今こそ自分は生をきちんと見つめているのだ、と言い聞かせられたことがあった。
 
 そのとき、ぼくは平静の中にいたように思う。世界の酷薄な優しさが、鋭い痛みと哀しい美しさを伴って、少しずつ胸の中に広がってくるようだった。
 そのうえ、その不安定な平安の中で、「永遠」と呼びたくなるようなものに、ふと「予感」するように、触れるともなく触れた気さえした。
 
 それは、錯覚であったかもしれない。
 そうだ、たぶん、ただの勘違いだ。
 しかし、ヴェイユの次の言葉が表すことに、そのとき、ほんの少しだけ、近づいていたと思ってはいけないだろうか。

苦痛は、わたしたちを、時間に釘付けにするが、苦痛の受容によって、わたしたちは、時間の果てへ、永遠の中へとはこばれる。わたしたちは、時間の無限定な長さを通りぬけ、これをのり越える。(田辺保訳)

 

 

付記
 シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)はフランスのユダヤ系の家庭に生まれ、政治、芸術、宗教について、極度に誠実に考え続けた思想家です。
 彼女は身体が弱かったけれど、哲学教師を務めながら厳しい工場労働にも従事し、スペイン内戦では人民戦線に味方して戦いました。フランス全土がドイツ軍に占領される直前にアメリカに亡命しますが、五か月後には対独戦争に加わろうとイギリスに渡り、その地で34年の生涯を終えました。
 ひたすら自分を律し、いっさいの妥協を排して己を行動へ駆り立てていく。思想家というより求道者の生涯でした。

 


引用は下記の本に拠りました。

シモーヌ・ヴェーユ「神を待ちのぞむ」渡辺秀訳(『シモーヌ・ヴェーユ著作集IV 神を待ちのぞむ他』渡辺秀・大木健訳、春秋社、1967年 所収)

シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』田辺保訳、勁草書房、1984年

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995年
 
※初出(日経ビジネスオンライン)では「神を待ちのぞむ」を副題としていましたが、このブログでは文章の最後に引用した『超自然的認識』を題名にしました。

 

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

パスカル『パンセ』を読む

筆者:岡 敦
題名:パスカル『パンセ』を読む(生きるための古典 11)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年11月16日

 

L字型の袋小路

 幼い頃、ぼくは都内の小さな路地で暮らしていた。両側に民家が並ぶ、「L」字型に曲がった袋小路だ。ここに車は入ってこない。住民以外の人間が足を踏み入れることもない。逆に、小さな子供は一人で路地の外には出ない。つまり、路地は外界から隔絶された安全な遊び場であり、いわば、ぼくら子供の小宇宙だった。

 
 路地には、赤ん坊から小学生まで大勢の子供がいた。
 Mちゃん、Eちゃん、Tちゃん、そうそうHちゃんもいたっけ……。
 遠くへ越して行った子もいれば新たに生まれて仲間入りする子もいて、いったい何人の子供が暮らしていたのか、今となってはよく思い出せない。
 
 ぼくたち路地の子供は、いつもいっしょに遊んでいた。
 場所や時間の約束なんてない。遊びたくなったら靴を履いて路地に立つ。すると、続いて誰かが、すぐに現れる。
 真夏の水遊びや花火、真冬の押しくらまんじゅう、鬼ごっこや隠れんぼはもちろん、名称もないその場かぎりの遊びを発明しては夢中で遊んだ。ガラスを割ったりボヤを出したり、当然、ケンカや仲直りもあった。
 ぼくの幼児期、あの甘く香しい季節の、形の定まらない思い出は、どれもこれもL字型の小さな袋小路の中に詰められている。

雪の日の思い出

 路地の子供たちの中で、ぼくが他の子と違っていたのは、病弱だったことだ。ポリオが大流行したときに発症したのもぼくだけ。喘息になったのもぼくだけだった。
 
 ある雪の日、驚喜した子供たちが路地を駆け回って遊んでいるときも、ぼくはひとり、家の小さな部屋にいて、みんなのはしゃぎ声を聞きながら、ガラス窓越しに灰色の空を見上げていた。外へ出て遊びたかったけれど、その日は喘息の症状が思わしくなく、母に厳しく止められていたのだ。
 空は薄暗く、いつまでもいつまでも、単調に雪を降らせ続けていた……そのとき何があったわけではないけれど、つまらない気分と、息苦しさと、やまない雪がひとつに混じり合って、この情景は今も記憶に残る。
 これは何歳のことだったのだろう。

話せない大発見

 年齢を覚えている記憶もある。
 これは五歳だ。
 晴れた日、少しオレンジがかった空気の色は、晩秋の午後の日差しのせいだろう。
 ぼくは路地の風景の中にいる。夏は金魚を売り、冬は焼き芋を売るOさん所有のリヤカーが置いてある。そのそばに当時八歳の兄がいて、もちろん路地の子供たちもいる。
 何をして遊んでいる最中だったろう、ふと、こんな考えが頭に浮かんだ。
 
 「ぼくは昨日のことを覚えている。
 一年前のことも覚えている。
 二年前のことも覚えている。
 三年前のことも覚えている。
 四年前のことも覚えている。
 五年前のことも覚えている。
 じゃあ、六年前のことは……?」
 
 そこまで考えると、突然、何と言っていいのかわからない不思議な気分に襲われた。「どこまでも時間が続いている」とか「自分がいない世界がある」とか、そういうことに気づいたに違いないが、そのときは、そうは理解していない。ただ、何かしらとんでもないことを発見して、びっくりしたのだ。
 しかし、それがどういうことなのか、自分でもわからない。
 突然、大きな音で目を覚ましたものの、何の音なのか見当がつかずベッドの上で不安を感じている人みたいに、ぼくは落ち着かなくなった。
 
 そばにいる兄に話しかけて、この「発見」を教えようとした。
 しかし話が長過ぎたのだろう。ぼくが「三年前のことも覚えている、四年前のことも……」と言いかけたとき、兄は「馬鹿だな、おまえが四年前のことを覚えているわけないだろ」とぼくの言葉をさえぎった、「一歳だったんだぞ。何か覚えているんだったら、言ってみろよ」。
 
 ぼくは幼過ぎて、「仮に」や「たとえば」といった言葉を使えなかった。「とにかく最後まで聞いてくれ」なんてセリフはもちろん頭に浮かばない。兄に言い返すこともできず、それどころか、この「発見」についてどう考えたらいいのか自分でもわからなくなって、ぼくは黙り込んだ。
 
 発見の驚きと黙ってしまった悔しさ、ともに強烈だったせいか、この出来事はそれから何度も思い出して、そのたびに不思議に混乱した気分になった。たぶんそうやって繰り返し「復習」していたおかげで、今でも覚えているのだろう。

パスカルの仕事

 ブレーズ・パスカル(1623年生―1662年没、)は、そんな「子供の大発見」ではなく、本物の大発見・大発明を連発した17世紀フランスの天才的な数学者、物理学者、哲学者だ。

 たとえば数学においては「パスカルの定理」、物理学においては「パスカルの原理」を発見した(残念だけれど、ぼくはどちらもきちんと説明できそうにない)。ぼくらが台風のニュースで耳にする「ヘクトパスカル」も、彼の名に由来する単位名だ。
 父親の仕事を手助けしようと、世界ではじめて計算機を開発したのも19歳のパスカルなら、定時に決まったコースを走り誰でも安い値段で乗ることができる「乗合馬車」、つまり今のバスの原型を考案して実際に事業化したのだってパスカルなのである(ちなみに、その利益は慈善病院へ寄付されていた。パリ市内で始めたこの事業は好調で、他の市や外国に拡張する計画もあったという)。
 病弱ゆえに39歳で亡くなったが、そうでなければパスカルは、いったいどれほど多彩な仕事を成し遂げていただろう。

困難な全体把握

 パスカルの最後の仕事である『パンセ』という本の執筆は、早過ぎた死ゆえに未完に終わった。
 この本は、執筆意図からすれば、ジャンセニスム(というキリスト教信仰の一つの在り方)の正当性を主張したり、無信仰者に信仰を勧めたりする、いわゆる護教論として書かれた文章だ。形式を見れば何百もの断片的な文章の集積で、繰り返しも多く、意味不明の個所もある。内容と形式どちらからしても、読めばたちどころに理解できるという本ではない。
 ぼくが『パンセ』を最初に手に取ったのは、たぶん高校一年の頃だ。最後まで読み通しはした。しかし、長い時間、ずっとパラパラ立ち読みをしていたような読後感だった。『パンセ』の断片性のために、そしてそれ以上に読み手(つまり、ぼく)の未熟さのために、「この本は、およそこういう本だ」という、全体のイメージを持つことさえ難しかった。

宇宙の中の迷子

 ただ、きっと多くの人がぼくと同じだと思うけれど、その頃のぼくは次のような文章に対してだけは、強い共感を覚えた。

 人間の盲目と悲惨とを見、沈黙している全宇宙をながめるとき、人間がなんの光もなく、ひとり置き去りにされ、宇宙のこの一隅にさまよっているかのように、だれが自分をそこにおいたか、何をしにそこへ来たか、死んだらどうなるかをも知らず、あらゆる認識を奪われているのを見るとき、私は、眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島につれてこられ、さめてみると〔自分がどこにいるのか〕わからず、そこからのがれ出る手段も知らない人のような恐怖におそわれる。(前田陽一・由木康訳)

 無限の宇宙と永遠の時間の中にあって、弱々しく、不安で、頼りなく惨めな人間。広大な世界の真ん中にたたずんで、自分が何ものか見当もつかずにいる。おそらく誰もが、少なくとも若いころには、必ず我が事として感じる「あてのなさ」だろう。
 パスカルは、それこそが(若者にとって、ではなく)人間にとっての基本的な現実であると見なす。そして、その現実を見つめることこそ、人が神を求める入り口になると考える。
 だからパスカルは、この「あてのない感じ」を重視し、繰り返し描写する。とくに知られているのが、あの有名な「考える葦」の一節だ。

 人間はひとくきの葦〔あし〕にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。〔略〕彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。(前田陽一・由木康訳)

 人間は、まるで水辺に生える葦のようだ。乾いた固い地面にしっかりと立つことすらできず、ほんのちょっとの外部環境の変化ですぐに倒れてしまう。
 あまりにも弱い。自分でも頼りない、ひどく惨めだと思う。

人間は考える葦

 しかし、それだけではない。
 人間は惨めなだけでなく偉大でもある、とパスカルは続ける。
 なぜか?
 「考えることができるから」がパスカルの答えだ。

 だが、それは考える葦である。〔略〕たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。(前田陽一・由木康訳)

 「考える葦」という比喩はわかる。
 しかし、なぜ「考える」ことが偉いのだ?
 
 ここでパスカルは「人間は言語を用いて思考するから動物より偉い」と言っているのではない。
 なにしろ彼は『パンセ』の他の部分で人間の思考力の限界、理解力の限界を繰り返し主張しているのだ。
 だから、この場合の「考える」とは、「論理的に把握する」という意味ではない。「理解する」「自然の法則を科学的に解き明かせる」という意味ではありえない。それでは、どういう意味か。
 
 上の引用文に「自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っている」とあるように、この「考える」とは、多分に感覚的で感情的な意識の働きのことだ。他の断片と合わせて読むと、ぼくには「考える」というよりは「認識する」「見て取る」という意味に近いように思われた。
 では、改めて問おう。
 「自分の弱さを見て取ること」を、パスカルはなぜ偉大だと言うのだろうか?

清々しい敗北感

 スポーツ、たとえばボクシングの、十年に一度あるかないかの名勝負を観る。
 選手の天賦の才、勇気や気高さ、精進のしるしを見て、ぼくたちファンは大きな感動を覚える。
 「なんていい試合なんだ。そして、なんて素晴らしい選手たちなんだ!」と賛嘆する。
 さらに、「それにひきかえ、ぼくはダメなやつだ」と声に出して言いこそしないが、自分を否定的に感じたりする。
 こうして圧倒的なものに触れ、それを偉大と認めるとき、同時に自分の卑小さ、惨めさを知る。
 「選手たちに負けた、ぼくは勝てない」と、ボクサーでもないくせに、ぼくは思う。競技者としてではなく人間として、自分は劣ると思わされるのだ。
 しかしそれは、清々しく充実した敗北感である。納得のいく惨めさである。そのとき、惨めさの中で、惨めな自分の対極にある偉大さに触れ、そして、その偉大さに包まれるという、素晴らしい体験をしているのである。

偉大を見て取る

 「考える葦」も同じだ。
 
 圧倒的で、何も語ることのない、沈黙する宇宙。
 そこにおいて、葦のように頼りなく、無意味と無価値に脅かされる、弱々しい迷子の人間。
 自然を前にして、無限を見て取り、畏れおののく。
 無限の宇宙に対して敬虔な想いを抱く。
 ぼくらは確かに惨めだ。
 しかし、いわば自分の惨めさと引き換えにして、その対極の無限なもの、偉大なもの、圧倒的なもの、絶対的なものを感じとっているではないか。
 つまり、惨めさの自覚は、宇宙や自然の偉大さを見て取ることと不可分一体だ。
 その条件だ。
 あるいは、偉大さを見て取った証拠だ。
 そして、それは、自分もまた偉大さに包まれる体験、生を肯定する素晴らしい体験をもたらす。
 そんな体験ができるのだから、人間もまた偉大なのである。

 人間の偉大さは、人間が自分の惨めさなことを知っている点で偉大である。樹木は自分の惨めなことを知らない。
 だから、自分の惨めなことを知るのは惨めであることであるが、人間が惨めであることを知るのは、偉大なことなのである。(前田陽一・由木康訳)

 パスカルは、そんなふうに言っている。
 
 高校生のぼくが『パンセ』から読み取ったのは以上のような「考える葦」という言葉の意味、つまり「自分の惨めさの自覚と、それゆえの偉大さの感受」がすべてだった。
 『パンセ』の総量と多彩な内容を考えると、あまりにもわずかしか読み取れていない。自分でも「『パンセ』を読んだ」という気はしなかった。
 しかし、ぼくにとっては、ここで得た思考(「惨め」と「偉大」の弁証法)は決定的に重要であったし、それは今もなお、重要であり続けているのである。

季節外れの収穫

 最後に、どうでもいいことを書く。
 
 高校時代に『パンセ』を読んだとき、よかったことが、もうひとつあったのだ。
 『パンセ』の中に、次のような断片があった。これは、内容的には「葦」と同じく、人間存在の頼りなさを表現した文章だ。

 私の一生の短い期間が、その前と後との永遠のなかに〈一日で過ぎて行く客の思い出〉のように呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見るかぎりのところでも小さなこの空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。(前田陽一・由木康訳)

 『パンセ』を読んでいてこの一節に出会ったとき、厳粛な内容にもかかわらず、ぼくは嬉しくて笑い出しそうになった。

再び秋の路地へ

 そこには、自分の生きた時間は、永遠の中にあって、その前後に無限の時間が横たわっている、と書いてある。
 それは、五歳のぼくの「発見」と同じ感覚だ!
 
 もちろん路地裏のありきたりの子供の「発見」と比べては、天才パスカルに失礼すぎる。まるで、憧れのスポーツ選手が試合で履く競技用シューズと自分が通学時に履くスニーカーのメーカーが同じである、と気づいて大喜びする男の子のようだ。
 そうわかってはいるが、それでもやっぱり嬉しかった。
 
 「五歳のぼくが六年前の記憶を探るときに味わう感覚」、あのときは兄に鼻で笑われてぼくは黙ってしまったけれど、それはやっぱり言うに値する「発見」だったのだ。なにしろパスカルだって、わざわざ本に書いているぐらいなんだから!
 
 あまりにも遅すぎる、勝利の気分。高校生になってから、幼稚園時代のいじめっ子を見つけて、やっと一発、お返ししてやったみたいだ。
 ぼくは心の中で、あの明るい秋の陽が差す路地の風景の中へ戻る。そして、八歳の兄の前に立って、小さな胸を張る。
 
 えへん!

 



引用は下記の本に拠りました。
パスカル『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫、1973年

 

 


(C) 2022 OKA ATSUSHI

明るい庭の小さな兄

筆者:岡 敦
題名:明るい庭の小さな兄(すべてはいつか、笑うため。 4)
初出:月刊『Hanada』2020年10月号

 

 あれは兄がまだ幼稚園児だった頃、そしてぼくは……いくつだったのだろう。
 夏のよく晴れた日の午後、ぼくは薄暗い畳の部屋で昼寝をさせられていた。横では、まだ若い母が添い寝して、病弱な次男を眠らせようと、小さな声で歌を歌っていた。
 あいにくぼくは少しも眠くない。昼寝なんかしたくない、と思う。それでも母に逆らうことなく、命じられるままに眠ろう眠ろうと努めていたのだった。不眠のときのじりじりする気持ち。それとは反対に、午後の時間はゆっくりと、止まりそうな速度で流れていた。
 
 この部屋は庭に面していた。庭との境に引き戸が立てられていて、戸には水平の桟が四本、薄く割れやすい板ガラスを支えている。
 夏の引き戸は片側へ寄せられ、小さな庭に向かって部屋は大きく開け放たれている。
 
 添い寝していた母が、ぼくより先に眠りに落ちた。歌はもう聞こえず、かわりに規則正しい寝息が聞こえる。ぼくひとり置いていかれた。つまらない、つまらない……
 ぼくは天井を見た。天井の板の木目の模様。壁を見た。白い漆喰壁、ぼくたち子供の貼ったシールの跡が汚い。
 
 だんだん体が落ち着かなくなる。もぞもぞと手を動かす。足をずらす。首を巡らせる。
 庭の方を見た。
 畳の果てに、引き戸のレール。
 その向こうに濡れ縁がある。
 そして小さな庭。夏の午後の強烈な陽が降り注ぎ、庭の空気を思い切り熱している。
 そこに兄が立っていた。
 
 幼稚園に通う三歳上の兄。
 短気で強気な性格の証拠に、眉と目の中心に力がみなぎる。
 口元は笑っている。でも、「優しく」ではない。何か悪戯を思いつき着手するときの笑い、これから起こることを予期するときに浮かび出る笑みだ。
 その兄が、ぼくに向かってさかんに手で合図を送り、こっちへ来いと呼んでいる。大声を出すと母が目覚めてしまうから、聞こえないほどのカスレ声で、「アツシ、アツシ」と繰り返している。手も口も、誘うというより、むしろ命じる調子で。
 時間が静止した薄暗い部屋にいるぼくの目に、庭に立つ兄はまぶしいほどに輝き活き活きとして見えた。
 
 母の顔を見る。母はぐっすり眠っている。
 兄を見る。兄はますます大きく手を動かし、早く早く何やってるんだ、とぼくを急がせる。
 昼寝をせよと命じた母と、庭に誘い出そうとする兄。ふたりの間で少し迷い……そうしてぼくは、母からそっと離れた。
 畳の端まで這って進み、濡れ縁に出る。そして庭に足を下ろすやいなや、兄といっしょに外へ駆けだしていった……
 
 これがぼくの記憶する、もっとも幼い兄の姿だ。明るい庭に立ち、暗い部屋から外へ誘い出そうと、悪戯っぽい笑みを浮かべて手招きする兄。
 
 思えば兄の誘いには、いつだって最初から、少し悪くて少し危ない気配が漂っていた。実際、ついていけば、たいてい最後はひどい目にあった。
 けれど、何度そんな思いをしても、たくらみを秘めて目を輝かせ「遊ぼうぜ」「やろうぜ」と誘う兄には、逆らえない説得力と、何よりも魅力があった。
 兄の魅力……大袈裟に言えば、兄の誘いに乗っていっしょに何かを始めると、そのとき急に世界が活気づくのだ。時間の流れが勢いを増し、痛快なことが起こる予感がする。体にエネルギーを感じて、何もかもうまく行く気がしてくる。
 そうして、兄といっしょになってこう思うのだ、生きることっておもしろいな、じっとしてなんかいられないよ、明日もきっと楽しいぞ、と。
 
 それは子供の頃だけの話ではない、大人になっても誰にとっても、兄はそんなふうだったろう。ここに記した、ぼくの頭の中の幼い兄の映像は、それゆえ兄の一生の在り方を、少なくともその大切な一面を、象徴しているように、ぼくには思われるのである。


  *  *  *


 この連載の執筆者だった兄・岡康道は、先月、「死は肩に乗っていた。すぐにどこかへ飛んで行ってしまったけれど」と記しています。けれども死はすぐに舞い戻り、兄の肩を、今度はがっちりつかまえると、ついに離してくれなかったのでした。
 この連載エッセイ「すべてはいつか、笑うため。」は、十六年間一九〇回掲載されました。自分の手で最終回を書くことはかなわなかった……とはいえ、こんなにも長いあいだ皆様に支持していただいたのですから、兄はもう心から満足して笑いながら旅立った……ぼくはそう信じています。読者の皆様、編集・制作してくださった皆様、兄に代わり御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

 

 

付記
この文章を書いたのは2020年8月3日、兄の死の三日後でした。読者に何を伝えなければいけないか……この書き方で意味は通じるのか……そんなことも考えられずに、ただキーボードの上に置いた指を動かしていました。

 

 


(C) 2022 OKA ATSUSHI

ぼくが生まれた日の父のこと

筆者:岡 敦
題名:ぼくが生まれた日の父のこと(すべてはいつか、笑うため。 3)
初出:月刊『Hanada』2020年8月号

 

 ぼくはときどき考える、ぼくが生まれた五月の朝、いったい父はどこにいたのだろう。
 初めてのこの世の昼と夜を過ごし、翌日が暮れ、翌々日も暮れて……やがて母とともに産科病棟から家へ移る日が来る、そのときになってもまだ、父は自分のふたりめの息子、ぼくの顔を一度も見には来なかったという。
 
 父はどこにいて何をしていた……仕事が忙しかったのか、何か切羽詰まった事情があったのか、それとも……
 そのことは、母に聞いてもわからない。
 若かった母はひたすら夫を待ち、待ち続け、それでも訪れることのない夫の気持ちや考えがわからなくなったと困惑し、最後には怒っていた、あの人は生まれてくる子を愛していないのか、と。
 退院し家に戻ったその夜に、母は、それゆえ父をなじり、強い調子で問うたという、愛せない子供を、どうして作ったのだ。
 父は答えた、ふたりめの子供ができてしまえば、おまえはもう離婚を考えられなくなるだろう、別れずにすむと思ったからだ……
 
 ぼくが生まれた日のことを母に尋ねる、すると、そのたびにこんな話を聞かされる。
 やれやれ、とぼくは思う、生まれて初めて自分の家で過ごした日、初めて父と対面したそのときに、ぼくはさっそく、あなたたちの口論と別れ話を聞かされていたんだね……
 
 借金の返済に困り、幼い長男を連れて九州から夜逃げしてきた夫婦。以来、父は恐れていた、こんな暮らしをしていては、いつか妻は俺を捨て、長男の手を引いて家を出て行くだろう。そうだ、もうひとり赤ん坊ができれば、そう簡単には出ていけないはずだ……父はそんなふうに考えたのだろうか。
 
 母はそう言う、はっきりとではないけれど、遠回しにぼんやりと、あの人はふたりめの子に愛情を持っていなかったと、それが母の結論のように。
 
 そうかもしれないが……しかしそうだったろうか……とぼくは母の話を素直に聞くことができない。父の顔、父の声を頭に浮かべる、父の話し方、ぼくに対する接し方を想い起こすと、父の心をどう受け取るべきか、ぼくはわからなくなってしまう。
 
 いつどんなときでも父は本心をあらわにすることはなかった。自分の考えを素直にそのまま言葉にするなんてありえなかった。根掘り葉掘り話を聞いても、どこまでも得体の知れない人だった。
 だから、父があの時ああ言った、こんなことを話したと聞かされたところで、それだけでは、彼の本心などぼくにはまったく想像もできない。そのように見えた、ということでしょう? それだけのこと、あのひとの本心はわからないよね……
 
 父は静かな人、穏やかな人だった、いつも、とても。人生や日々の生活のいろいろな局面で、たとえどれほど追い詰められる事態になったとしても(いつも追われていたのだ、経済的にも家庭的にも)、慌てたり、大声を上げたり、手を出したりすることはない。苦しさのあまり、逆に怒りだすとか、居直ろうとか、そういったまねさえもしなかった。
 いや、できなかった。
 穏やかというよりも……それほどまでに気が弱かったのだろう、いつも周囲をうかがうウサギのように怯えた目をしたひと……
 
 そんな父は、話している相手がいきりたち、激してくると……そして弁解も抗弁もできなくなると、窮地から逃れようとして、しばしば「変な手」を用いていた。
 父はとっさに相手の意表をついた言葉を口にして、煙に巻いてしまうのだ。頭を混乱させて、どう対応してよいのかわからなくさせ、黙らせる……ちょうど命の危険を察知した小動物がおのれの姿や行動を一変させ、捕食者を戸惑わせてその場を脱するように。それが、父が身につけた窮地脱出の方法。いつもいつもそんなふうにして、父は修羅場から逃れようとしていたのだった。
 
 ぼくが生まれてすぐ、母に問い詰められた日の父の返事も、だからぼくは真に受けることができない。「子供を作ったのは離婚を防ぐため……」という父の言葉は、やはりいつもの、その場しのぎの「意表をつく言葉」だったのではないか、と思う。
 生まれてくる子への愛情があるとかないとかではなく、離婚になるのを恐れていたとか、そんなことですらなく、ただただ、そのとき激怒した妻が喉元へ突き付ける矛先をいったん逸らし、間をとり、破局を先延ばしするため、ただそれだけのために発せられた、ひとかけらの真実も本心も含まれない、単なる舌先の返答だったのではないか……
 
 実際、そのとき母は絶句して、父はその難詰の場からの脱出に成功しているのだった。

 

 

付記
2020年6月初め、病気療養中の兄(岡康道)に代わって私が書いた文章です(私の名で掲載されました)。
兄のエッセイや小説では、しばしば「父」が主題となります。ここではそれに関連することを書きました。 

 

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

中学生のニーチェ読解

筆者:岡 敦
題名:中学生のニーチェ読解(すべてはいつか、笑うため。 2)
初出:月刊『WiLL』2011年8月号

 

 中学三年の終わり頃、ニーチェの『善悪の彼岸』を手に取った。
 哲学の本などほとんど読んでいなかったくせに、(おそらく高校生の兄に感化されて)ぼくはニーチェを神格化していたから、「いよいよあのニーチェを読むのだ」という期待と不安と、それに生意気な子供の少し誇らしい気持ちとで胸がいっぱいになった。これからぼくはどれほど難解で深遠な文章に出会うのだろう、いったい最後まで読み通せるものだろうか……。 
 しかし、読み始めてみると、その文章は想像していたよりもずっと易しく感じられた。ゴツゴツした哲学用語もあまり出てこない。「うん、読める」と自分がニーチェを読んでいること自体に感動しながらページをめくっていき、数日後に読了した。
 最後の一文を読み終えて本を閉じた、その瞬間のことを、ぼくは今も忘れない。心底、驚いたのだ。
 「ぼくの頭は空っぽだ!」と。
 
 一語もおろそかにしないで着実に読み進めてきたはずだった。読み飛ばしも読み間違いもないと思っていた。それなのに、ぼくはこの本をまったく理解できていない。そう気がついて愕然とした。
 そして少しの間を置いて、こういうことがあるんだなあと感心してしまった。あたりまえだが、個々の言葉や個々の文の意味が理解できたとしても、そもそも著者の執筆意図を知らず、著者の論敵の姿が見えていなければ、文章全体は決してつかめるものではない。そして文章全体がつかめなければ、結局、一語だって本当にはわからないのである。
 そういうことを思い知らされた。ぼくにはとうてい登れない高い塔の上にニーチェはいるのだとわかった。だから、それはそれで大きな収穫だった気もして、自分の読解力のなさに失望したというより、むしろ清々しく、充たされた気持ちになった。
 スポーツの試合で天才的な選手と対戦して完敗し、自分は無能だ、ゼロに等しいと悟らされた選手が、それでも笑顔で試合場を後にするときは、もしかしたらこんな気分ではないだろうか。
 
 この失敗で自分の読解力の限界を知ったので、次はもう少し易しい本を読もうと思い、「ニーチェ自身によるニーチェ入門」とも呼ばれる『この人を見よ』を選んだ。しかし、いくら「初心者向け」であるにしても、基礎知識も経験も足りない中学生には、やはり理解できるはずがない。結局、本の趣旨とは関わりなしに、ニーチェの言葉の断片を「格言」のようにして記憶に留めただけだった。
 
 それから三十六年を経た今年〔執筆時は2011年〕、三月十一日の東日本大震災の後に、そんな「格言」のひとつをぼくは思い出していた。
 「すべての決定的なことは『それにもかかわらず』起こる」という言葉だ。
 この言葉を記憶したとき、中学生のぼくは、そこから勝手に「三つの考え」を学んでいた。

(1)ひとつは、「人間がどれほど知恵を働かせたとしても、それでも事は起こってしまうものだ」という運命論のような考えだった。人間の期待や努力には、決定的な事柄を防ぐ力などない。人間の思惑など無に等しい。そんなふうに冷ややかな目で眺めよ、と言われているようにも思われた。

(2)もうひとつは、「想定して対策を講じていた『にもかかわらず』起きるなら、それは人間の想定を超えている出来事なのだから、人間社会に決定的に重大な事態をもたらすに決まっている」。つまり「想定外のこと」と「決定的なこと」は同義である、同語反復的である、という論理的でもあり皮肉でもある受け取り方だった。

 巨大地震とそれによる津波の被害を伝える映像を見るたびに、ぼくは(1)を思い出した。そして、原発事故のニュースを聴くたびに(2)を思い出していた。
 いずれを想起するにせよ、気持ちはひたすら沈んでいく。「人間の思惑を軽々と超える暗く圧倒的な現実の力を受け容れよ」と命じられているようなものだから。あの日以降ずっと続いている、まるで地球壊滅を描くSF映画のような状況を、とても理解はできないけれど、それでもぼくたちは、これがわれわれの現実だと受け容れるしかない……千年に一度の大津波……この原発事故はチェルノブイリ級だ……こんな調子では、いつまで経っても復興できない……。

 そうして目を伏せ、気持ちがしゃがみ込みそうになった頃、ぼくは「すべての決定的なことは『それにもかかわらず』起こる」という言葉から得た、中学生のぼくの三つ目の思考を思い出した。
 それは、(3)想定を超えて起こる「決定的なこと」は、悪いこととは限らない、という肯定的な解釈だ。
 人がどんなに絶望しても、そんな気持ちなどおかまいなしに、決定的に素晴らしいことが起こる。打つ手はすべて失敗し、専門家の予測では壊滅不可避であるとしても、素晴らしいことが「それにもかかわらず起こる」のである。
 だから、大丈夫。もう可能性など何一つ残されていないと思われるとき、そのときにこそ、きっと、ぼくらの再生への歩みが始まるだろう……。

 
 あの春の重い空気の下、浅くいいかげんな中学時代のニーチェ読解が、ときどき、こんなふうに頭の中によみがえってきて、そのたびにぼくは、少しだけ励まされていたように思う。
 
 
付記
この文章を書いたのは2011年6月初め、東日本大震災から三か月も経っていない頃でした。
中学生の時に読んだ『善悪の彼岸』は竹山道雄訳(新潮文庫)、『この人を見よ』は手塚富雄訳(岩波文庫)でした。

 


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「すべてはいつか、笑うため。」のこと

筆者:岡 敦
題名:「すべてはいつか、笑うため。」について(すべてはいつか、笑うため。 1)

 

 「すべてはいつか、笑うため。」は、私の兄(岡康道)が書いていた連載エッセイのタイトルです。
 この連載は、月刊『WiLL』2005年1月号から月刊『Hanada』2020年10月号まで、およそ16年、190回続きました。

 休載は一度もなかったのですが、兄は海外にいたり体調がすぐれなかったりして書けないことがまれにあり、そのときは私が代打に立ちました。

 当ブログのこのカテゴリー(「すべてはいつか、笑うため。」)には、私が書いた数回分を掲載します。

 

 

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クートラスの作品に

筆者:岡 敦
題名:夜の漂着物(クートラスの作品に)
初出:佐伯誠・須山悠里・山内彩子編「Coutelas Journal」5号、2010年8月8日(須山悠里編『Coutelas Journal』エクリ、2010年 所収)

ロベール・クートラス(1930-1985) パリで生まれパリで没した画家。包装紙や拾った紙などを材料に手のひら大の作品を制作。画家本人はそれを「ぼくの夜々 Mes nuits」と呼んでいた。

 

夜の漂着物

 ロベール・クートラスのカード状の作品を見たとき、ぼくの目に、それは薄い木片のように映った。長い年月、屋外で風雨にさらされて、表面の塗料がはがれ、朽ちかけている、何かしら実用的なものの断片のように。あるいは幾年ものあいだ波間を漂った後で、ようやく海岸に打ち寄せられ、砂に埋もれたまま子どもの手に拾い上げられるのを待っている、外国からの漂着物のように見えた。
 
 いずことも知れない遠いところから、あちらを訪れ、こちらに立ち寄りして、ようやくここに届いた。想像もできない長い時間をかけて過去から未来へと旅をする、その半ばで、今、偶然ぼくに出会ったのだ。そんな思いが胸の中に満ちてくる、一枚のカードを間近で見つめているだけなのに。
 
 手に取る。軽くて薄い。外観からは想像もできないほど。ラング・ド・シャみたいだと思う。同じくらいに脆くて、甘くて、そうして同じくらい夢見がちだと。
 
 そして、ぼくは考える。どこかの国の誰かの生活の中で、これはいったいどんなふうに使われていたのだろう。こんなにも華奢な体で、どれほど大切な意味や役割を担っていたのだろう。わからない。とにかく今は元の生活を離れ、かつての意味や役割から解き放たれて、宙に浮いているのだ、その意味作用は。ぼくらは、わかりそうでわからない、何とももどかしい気持ちがする。その曖昧な境遇への共感と親密感とを覚える。そして手の中にあるのに、「遠く隔てられている」感じを。
 
 ――いや、わかっているさ、とぼくはつぶやく。これはクートラスという画家の手になる作品であって、海岸で拾った漂着物なんかではない。でも画家は、そんなふうに見るように作っている。だからぼくは、作家が見せようとするそのとおりに見るんだ。
 
 画面は三つの層でできている。
 
(1)地の層。たいていは縦に荒く筆目が残る。端から端まで、いくつもの筋が川の流れのようにゆるい曲線を描き、ときおり乱れて美しい。さらに別な色や物質が重ねられたりもして、支持体の「物質性」が強調されている。
(2)図の層。少ない色数で一息にあっさりと描いてある。それは見る者に没入を促すような空間ではない。ひとつの画面でひとつの意味を構築してはいない。絵画というより図柄だ。何かしら実用的な意味があったように見えるが、それが何なのかわからない。巨大な作品のカケラが落ちている。あるいは続き物のうちの一点だけが、仕舞い忘れられて、ここに残されている。そんな「断片性」を感じる。
(3)表面の層。埃がついたり、傷ついたり。塗り重ねた絵の具の一部も、ぽろぽろとはがれ落ちたり。これは制作過程に「偶然性」が導入されているのだ。
 
 三つの層の物質性、断片性、偶然性が小さなカードの表面で交わり、一体となって、作り手の意図や思惑から隔てられている感じ、そして、見る人の視線にさらされても決して従順にはならない感じを醸し出す。いわば「外部性」を、つまり「どこか知らないところから来た」感じを。
 
 このカード状の作品群は「ぼくの夜々」と名付けられている。夜は海だ。それは、この身も蓋もない現実の世界と別次元の世界とを、大きな潮の流れでつないでいる。クートラスは、海辺ではなく夜に拾う。遠いどこかの国、過去、それとも未来、よその星、あるいは記憶、空想の街? そんな異世界から流れてきた物が、クートラスの夜に打ち寄せられて、彼は一晩にひとつずつ、それを拾い上げては、また夜の波間に帰してやり、そうして今は、ぼくの手の中に打ち寄せられているのである。

 

 

 

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ユイスマンス『さかしま』を読む

筆者:岡 敦
題名:ユイスマンス『さかしま』を読む(生きるための古典 10)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年12月8日

 

高級な引きこもり

 『さかしま』は、「デカダンスのバイブル」とも呼ばれる奇妙な小説だ。1884年刊行、作者はジョリス・カルル・ユイスマンス(1848年生-1907年没)。愛読者は熱烈に愛好していて、この本を生涯最高の一冊と呼ぶ。しかし、嫌いな人はすぐにうんざりして、ページをめくる指も止まりがちだと言う。
 主要な登場人物は、主人公のデ・ゼッサントただひとり。彼は貴族の末裔、神経質で華奢な独身男だ。17歳で両親を亡くしたが、さいわい財産はある。
 イエズス会の学校で神学やラテン語を学び、卒業後は貴族から娼婦までいろいろな人々と広く深く交際して遊び尽くし、体には病を心には嫌悪感を持つに至った。貴族は退屈で、聖職者は偽善的。思想家は阿呆で、遊び仲間は空っぽだ。女性への情熱さえも、ついには涸れ果てた。だいたい、どいつもこいつも無礼者だし俗物だ。私にとっては大切な思想や芸術を、内心、馬鹿にしていやがる!

 デ・ゼッサントは結論を得た。
 自分は、精神的な価値を求めている。しかし世間では、精神的な価値など少しも大事にされていない。価値基準は、金や周囲の評判だけ。自分は、そんな現代の生活が嫌いだ。そんな生活に馴染んでいる連中も大嫌いだ。
 そして、決めた。
 私は隠遁しよう。
 まず、交通の便が悪い土地(パリ郊外のフォントネエ)に一軒の家を用意する。もちろん内装にも調度品にも、自分の精神的な趣味を徹底させる。そして、世間とは縁を切って、ひとり静かに生活するんだ。
 こうして彼は、いわば「高級な引きこもり」になった。

 あたかも一人の隠者のように、彼は孤独の生活を送るのに丁度よい時期にきていたし、生活に疲れ、生活からもはや何物をも期待しない心境になっていた。また、あたかも一人の修道士のように、彼は無限の倦怠、瞑想の必要、もはや俗人どもと共通の何物をも持ちたくない欲求などに、執念く取り憑かれていた。彼にとって俗人とは、功利主義者と馬鹿者の別名にほかならなかった。(澁澤龍彦訳)

 小説『さかしま』は、こうして始まったデ・ゼッサントの引きこもり生活の様子や趣味を、ひたすら紹介していく。
 その趣味は神秘主義的である。
 少し悪魔主義的である。
 人間嫌いで自然嫌いで、不健康で内閉的である。
 主人公は世間との関わりを断って、そんな趣味の世界に没頭する。だから、この本は頽廃的だと言われたのである。

ヴァーチャル志向

 デ・ゼッサントが引きこもったのは、どのような家だろうか。たとえば食堂を見てみよう。彼は、食堂の中に入れ子のようにして、ひとまわり小さい部屋を作った。その部屋の窓は、船の側面にある舷窓に似せてある。そして、この窓の外側、食堂の本来の窓とのあいだに巨大な水槽を設置する。 

 こうしておいて彼は、自分が二本マストの小帆船の三等室にいるものと想像し、時計の部分品のように組み立てられた、機械仕掛の精巧な魚たちが、舷窓のガラスの前を去来したり、模造の海草にからみついたりするさまを物珍しそうに眺めるのであった。(澁澤龍彦訳)

 自宅の食堂に居ながらにして、大海原を航海する船中の気分が味わえる仕組みだ。
 デ・ゼッサントは思う。現実の中で欲望を満たすよりも、人工的な仕掛けと想像力によって、欲望を満たすほうがいい。むしろ、そのほうがずっと快適だ 。

 要はただ、いかに振舞い、いかにして精神を一点に集中するかにある。幻覚を生ぜしめ、現実そのものに現実の夢を代置し得るまでに、一事に没頭するには、いかにすればよいかにある。
 かくてデ・ゼッサントの眼には、人工こそ人間の天才の標識と思われたのであった。(澁澤龍彦訳)

 こうしてさまざまな仕掛けを施し、自分の趣味で埋め尽くされた屋敷の中で、デ・ゼッサントは好みの絵画や書物(それらはどれも、この世ならぬ境地へ誘ってくれる、超越的な、神秘的な、あるいは幻想的な作品だ)とともに時間を過ごす。これが、デ・ゼッサントの「人工楽園」だ。
 この「ヴァーチャル志向」は、今となっては、さほど奇異な印象は受けない。というより、誰でも素直に憧れてしまいそうだ。しかし、この小説が発表された十九世紀末の読者にとっては、何とも妖しい、そしてあまりにも不健康な欲望のように思われただろう。

心身を病んでいく

 さて、しかし、問題は主人公は幸福かどうかだ。こうして暮らすデ・ゼッサントは、いったい、満足しているのか?
 最初は、満足していると思っていた。
 ところが、結局は、違ったのである。

 隠遁生活を始めてからというもの、健康状態は悪化していくばかりだ。体だけなら、まだいい。身体以上に精神が乱れていく。日が経つにつれてますます不安定になっていき、ついには、隠遁生活をやめてパリへ戻るよう医者に説得される始末だ。
 なぜだろう。
 自分の趣味を全面開花させて、それに浸って暮らしている、そんなにもやりたいほうだいの生き方なのに、何が彼を苦しめるのだろう。

希望と断念の間で

 実は、趣味に浸って生きることなど、彼の本当の望みではないのである。彼が最も強く求めているもの、それは、精神的なもの、超越的なものであり、具体的に言えばカトリック的なものだ。信仰の世界を自分自身の世界として、その中で生きていくことだ。
 デ・ゼッサントは、そんな自分の本当の望みを、実は、自覚している。人間嫌いで傲慢で悪魔主義的な趣味に浸りながら、本心では自分はカトリック信者として生きていきたいのだと彼はわかっている。

 だが、できない、と彼は血を吐く思いで断念する。何しろ今は科学の時代だ。自分の知性からして、また性格からして、カトリックの教義を本気で信じるなど、とうていできない。できるはずがない。
 それで本当の望みは胸の奥にしまって忘れるように努め、彼は資産と暇にまかせて、中世カトリックふうの気分を醸し出す神秘的な趣味に走る。外界のノイズを遮断しているそのさまは、まさに僧院に籠もる修道僧のようだ。

 だが趣味は、どれほど徹底しようと趣味だ。本物ではない。甘く、ぬるく、不徹底な、代替物に過ぎない。デ・ゼッサントは、心の奥底では代替物に満足できずいる、本物を求めて煩悶する。
 でも、どうしろって言うんだ? 私は、本当の信仰など持てる人間ではない!
 前進もできなければ完全撤退もできない、中途半端で宙ぶらりんの気分のまま、彼の心身は弱っていくのである。

 病んだデ・ゼッサントは、療養のためパリへ戻ることにする。現代の生活へ、俗世間へと帰っていくのだ。そうしなければ、生命も危ぶまれると医者が言うのだから。
 『さかしま』は、こうして主人公の悲鳴のような独白で幕を閉じる。

主よ、疑いを抱くキリスト教徒を憐れみたまえ、信じようと欲して信じられない信仰者を憐れみたまえ。古い希望の慰めの光ももはや照らさぬ大空の下を、たった一人で、夜のなかに舟出していく人生の罪囚を憐れみたまえ!(澁澤龍彦訳)

これは自滅の物語

 『さかしま』は、人工楽園やデカダンスを魅力的に描いた作品だろうか。
 そうではない。まったく違う。
 主人公はドタバタと見苦しく動き回り、記憶や沸き立つ思いにかき乱されて、少しも幸福ではない。彼は、金と暇と教養にまかせて好きなように振る舞いながら、実際は、身も心もボロボロになるまでみずからを痛めつけていく。

 これは破滅の物語、愚か者の自滅の物語だ。

 破滅の原因はわかっている。
 自分が心の底で望んでいることを、しかし、決してやろうとしないから。その代わりに、趣味として、代替的に、浅く、不徹底に手を染めるから。そうやって、自分をごまかしているから。自分の本当の希望を押し隠し、どこまでも自己欺瞞の世界に浸って生きようとする男に、安らぎの日々など来るわけがない。

 こうして主人公の批判を書いていると、ぼくの気持ちは暗くなる。資産や感性や学識の面では天と地ほどの隔たりがありながら、しかし、悪い面に限っては、ぼくは彼と同じなのだ。

否定面だけ同じだ

 ぼくは自分の考えや感情を、希望や判断を、ずっと黙って過ごしてきた。通じるはずのない言葉を口にするなんて馬鹿げている。世間を知らない子供のやることだ。笑顔とお愛想で適当にお茶を濁すのが大人のマナーってもんだ。
 だいたい「自分の考え」「自分の感情」なんて言うけれど、そんなもの、人に言うほどの価値はあるのか? 希望が通ったとして実行する自信はあるのか? 才能は? 成功の目算は? 何もないなら、黙っていろ。

 そのとおりだ。ぼくには、才能も自信も何もない。やはり黙っていたほうがよさそうだ。黙って……黙っていれば、どうなるのか? ぼくは倒れる。身体も精神もストレスに弱い、そんな情けないところも、ぼくはデ・ゼッサントと同じだ。数年おきに、一日中、吐きまくる。家にいるときも、外出中のときもある。倒れて、吐き続けて、ついに救急車で運ばれたことも何度かある。
 それでもぼくは変わらずに、ただ、日々をやり過ごしてきた。ぼくが何かを言ったり書いたりしたところで、どうせ通じるわけがない、できないことを望むのは馬鹿げている、それでもなお押し通そうというほどの自信もない……。
 まったく、金もセンスも教養もない、否定面だけのデ・ゼッサント!

謙虚ではなく傲慢

 しかし、今は、こう思う。 
 こうしてときどき倒れながら生きていくのなら、それより、いっそ大失敗して、最後に一回、完全に倒れてしまったほうがマシではないか。どうせ通じないと大人らしく苦笑いと愛想笑いで暮らしていくなら、子供じみた馬鹿笑いと悔し泣きで過ごすほうがずっといいだろう。周囲の人々に「まともな大人」と見られて敬意を払われるより、「青臭い馬鹿」とさげすまれるほうが、ずっと楽しいに違いない!
 これがぼくの本当の望みだ。
 だから今、この連載でも、ぼくは恥知らずなことを思い切り書いている。
 これで思い切りだって?
 まだ、足りない。
 もっと、もっと、だ。
 ひるむ自分にそう言い聞かせて、目をつぶり、暴走車に乗った気分で書いている。

 すると、どうだろう。友人や編集者、そして読者のみなさんに、何かが通じているようではないか!
 どうせ通じないと思って遠慮がちに話しては、「やっぱり通じなかった」と下を向き、口にしたことを悔やんできた言葉、言葉、言葉……。それなのに、ヤケクソになって思い切り書けば、通じるのだ。いや、通じるだけではない、読んだ人たちは、同意したり共感したり励ましたりしてくれる。
 そうだ。「他人に通じない」と決めつけるなんて、ぼくは傲慢だった。人間が持っている共感したり手を繋いだりする可能性を軽んじていたのだ。それに、「自分にはできない」などと思うのも、やっぱり全然、謙虚ではない、傲慢だ。自分に何ができるかなんて、そんな判断、ぼくごときにできるはずがない。

 デ・ゼッサントだって、そう。
 自分はカトリック信者にはなれないと決めつけ、代替物でごまかそうとして、ついに体を壊す。そんな思いをするぐらいなら、やってみるべきだった。
 実際、作者ユイスマンスだって、『さかしま』を書いた八年後、カトリックに改宗してトラピスト修道院に籠もっている。世間はもちろんびっくりして大騒ぎしたけれど、そんなところで遠慮してどうなるって言うんだ?

 

 


引用は下記の本に拠りました。
J・K・ユイスマンス『さかしま』澁澤龍彦、河出文庫、2002年

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

『今昔物語集』を読む

筆者:岡 敦
題名:『今昔物語集』を読む(生きるための古典 9)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年8月24日

 

今昔物語集

 『今昔物語集』は、平安時代の末期(12世紀の初め)に成立した仏教説話集だ。作者未詳。書き出しはすべて「今は昔……」で統一された、1059編の物語だ。
 ぼくは全編を読んではない。機会があるたびに、つまみ食いのようにして読んだだけだ。中には、おもしろい話もあったし、退屈な話もあった。
 そして、ときには、この「讃岐の国の多度の郡の五位、法を聞きて即ち出家せる語(さぬきのくにのたどのこおりのごい、ほうをききてすなわちしゅっけせること)」のように、いつまでも心の中で深く美しい光を放ち続ける物語に出会うこともあった。

極悪人源大夫

 舞台は讃岐国の多度郡(今の香川県仲多度郡の多度津町や善通寺市あたりらしい)。そこには源大夫(げんだいぶ)と呼ばれる極悪人がいて、毎日のように人を傷つけ殺すものだから、地元の人々にずいぶん恐れられていたという。
 ある日のこと、源大夫は4、5人の手下を連れて狩りをした(当時の感覚では狩猟も悪事だった)。その帰り道のこと、一行がお堂の前にさしかかったとき、源大夫はそこに大勢の人が集まっていることに気がついた。
 この連中はいったい何をしているのかと手下に問うと、「講」と答える。僧侶が講師となって人々に仏法を説いているのである。
 仏教嫌いの源大夫だが、ふと好奇心にかられて馬から降りると、ひとり、お堂の中へ入っていった。
 彼は講師をにらみつけ、腰の刀に手をやりながら言う。

おれが心から「もっともだ」と納得することを話して聞かせろ。できなかったら、おまえにとって不都合なことになるぞ。(筆者訳)

重罪人も救う

 講師は恐ろしさに震え上がった。そして、心の中で仏に助けを求めながら話し始めた。

ここから西の方、多くの世界を過ぎたところに、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏さまがおられます。その仏さまはお心が広いので、長年にわたって罪を重ねた人であっても、改心して一度でも「阿弥陀仏」と唱えれば、必ず迎え入れてくださいます。そうなると、豊かですばらしい国に、しかも願いごとはすべてかなう身に生れ変って、ついにはその人自身が仏に成るのです。(筆者訳)

 「阿弥陀仏は、その名を呼びさえすれば、誰でも助けてくださる」のだという。仏の慈悲の広大さを説く、ありがたく尊い教えだ。
 しかし、そのような話、この人殺しの源大夫が納得するだろうか。「馬鹿なことを言うな。そんな甘っちょろい仏がいてたまるか」と怒り出し、刀を抜いて講師を殺してしまうに違いない……。

 ところが、源大夫の反応は意外なものだった。
 「その仏はすべての人を、哀れまれるというのか。それなら」と僧に尋ねる、「このおれも憎まれたりしないのだな」。
 講師は肯定した。
 すると、源大夫はさらに尋ねる。
 「ならば、おれがその仏の名をお呼びしたら、仏はお答えになるのだろうか」。

「やむをえない」

 極悪人の源大夫が、阿弥陀仏の話に心動かされている。
 彼にしても、自分の血まみれの人生を肯定していたわけではないのだ。
 やめられるものならやめたい、新しい生活を始めたい。
 しかし、やめられない……。

 人生の歯車は、気が遠くなりそうなほど複雑に組み合わされている。何がどう連動するかなんて、誰にも決して見通せない。
 最初に自分が何を思い、何を意図して始めたにせよ、その後は想像すらできなかった状況が次々に現れて、いつもそのまっただ中に、途方に暮れた自分が立ちすくんでいる。
 こんなはずではなかった。
 どこかで間違ってしまった。
 でも、今さら引き返せない。もう、どうしようもない。いつのまにかこうなって、既にこの人生から抜けられなくなっている。
 「これが自分の人生だ」と納得して引き受ける、そんな心境には成れるはずもないが、他に選択肢がなければしかたがない、不満があっても、間違っていると思っても、この暮らしを続けるほかない。

 他人の目には「好き勝手」「自由奔放」に見えたとしても、実際はみんなこうして、多かれ少なかれ「やむをえない」と思いながら、言い訳もせず、泣き言も言わないで、それぞれの人生を生きているのではないか。

重い扉が開く

 源大夫も、そんなふうにして悪事を重ねてきた。だから、弁解もしないが、反省もしない。
 今さら仏像を拝んだって、地獄落ち必定だ。過去の暮らしも今の暮らしも地獄のようなものだが、この先どうしたって、やはり地獄が待っている。おれには地獄暮らし以外、選択肢はない。
 そう思っていた。

 ところが今聞いた話では、阿弥陀仏は悪人だって哀れんでくれるというじゃないか。
 そんなことがあるのか。
 このおれが救われるなんて、ありえるのか?

 「ない」と思って諦めていた別の選択肢が、「あった」とわかる、いや、「あるかもしれない」と思えたら、それだけで、目の前の大きく重い扉が開かれた気がする。

 開かれた扉の向こう側には、果てしなく広い、しかも自分を迎え入れてくれそうな空間が広がっていて、そこから優しく風が吹いてくる。源大夫は、今、その風をかすかに頬に感じている。

源大夫の決心

 「おれがその仏の名をお呼びしたら、仏はお答えになるのだろうか」と源大夫は講師に問うた。
 返ってきた言葉は「嘘偽りのない真実の心でお呼びするなら、お答えになるでしょう」だ。

 源大夫の決断は速く、行動は徹底している。
 その場で、手下たちに解散を告げる。
 躊躇なく頭髪を剃り、着ていた服を脱ぎ捨て、粗末な衣に着替える。
 武器を置いた代わりに、金鼓(こんぐ)を首にかける。

おれは、ここから西に向かう。阿弥陀仏の名をお呼びし、金鼓を叩いて、答えていただけるところまで行こうと思う。お答えをいただけないうちは、野山があろうと海河があろうと、けっして引き返しはしない。ただ西に向かって突き進むだけだ。(筆者訳)

応答を求めて

 源大夫は、何もかもを捨てて、ただ阿弥陀仏の応答を求めている。
 なぜ彼は、返事が欲しいのだろう。
 いったい、どこに、いきなり財産や権力を捨ててしまうほどの価値があるのだ?

 源大夫は考えただろう。
 極悪人でさえ哀れむという阿弥陀仏なら、きっとおれの惨憺たる人生だって、わかってくれる。
 「やむをえなかった」なんて誰にも決して言いはしないが、そう言いたくなるようなことは、ずいぶんたくさんあった。阿弥陀仏は、そんな場面もすべて見て、知って、わかっているはずだ。
 阿弥陀仏が本当にいらっしゃるなら、もちろんおれの人生など肯定するはずはないけれど、しかしきっと、おれに向かって、「わかっているよ」と、うなずいてくれるだろう。

 それだけでいい。

 そんなふうに阿弥陀仏がうなずいてくれるなら、それだけで、おれは、自分の過去を、納得して引き受けることができる。
 阿弥陀仏よ、本当にいらっしゃるなら、そしてこんなおれでも見ていてくださるのなら、どうかひとこと、そうお知らせください……。

ひたすら西へ

 「阿弥陀仏やぁ、おおい、おおい」と大声で呼びながら、源大夫は西へ向かって歩き出す。
 深い川があっても、浅瀬を渡ろうとはしないで、そのまま進む。
 高い峰があっても、迂回路を探したりしないで、まっすぐ登っていく。
 倒れても、立ち上がって、また歩き出す。

 どれほど歩いただろう。日が暮れてきた。
 源大夫は、ひとつの寺に行き着いた。
 応対に出てきた住職に、源大夫は自分の事情と決意を話し、頼みごとをする。

おれは、これからさらに西を目指し、高い峰を越して歩いていく。
もし食べ物があれば、ほんの少しでいい、分けてほしい。
そして、七日経ったら自分の後を追って来てくれないか。(筆者訳)

 住職は了解した。
 そして今夜はこの寺に泊まるよう勧めるのだが、源大夫は断って歩き去ってしまった。

二股の木の上

 七日が過ぎた。
 住職は約束を守って寺を立ち、源大夫を追って西に向かう。
 高い峰を越え、さらに高く険しい峰に登る。
 すると、西の方に海が見えた。
 そこに二股の木が生えている。
 股のところには、あの源大夫がまたがっている。
 金鼓を叩き、阿弥陀仏の名を呼びながら。

 源大夫は、住職が来たことに気がつくと、とても喜んだ。
 源大夫は言う。

 おれは、ここからさらに西に行き、海にも入って行こうと思っていた。しかし、ここで阿弥陀仏に答えていただけたので、この場所に留まってお呼びしているのだ。

阿弥陀仏の声

 住職は、不審に思う。
 この得体の知れない男は、阿弥陀仏が自分の呼びかけに答えてくれたという。
 そんなこと、信じられるものか。
 今まで多くの高僧が念仏を唱えてきたが、阿弥陀仏が声を発して答えるなんて話は聞いたことがないぞ。
 それで住職は、阿弥陀仏はどんな返事をしたのかと尋ねる。これは相手の答えを頭から疑ってかかる、意地悪な質問だ。
 源大夫は答える。

「それならば、お呼びしよう。聞くがいい」と言って、「阿弥陀仏やぁ、おおい、おおい。どこにいらっしゃいますか」と叫んだ。すると、海の中から素晴らしく美しい声がして、「ここにいる」とお答えになった。(筆者訳)

 源大夫の呼びかけに、阿弥陀仏が答えている。
 信じがたいことだが、今この耳で確かに聞いた。
 こんなことが本当にあるのだ。
 住職は、ありがたくて、もったいなくて、地面に伏せて大声で泣き続けた。

 源大夫もまた涙を流しながら、住職に言った。
 あなたは、もう寺に帰ってくれ。
 そして七日たったら、またここへ来てほしい。
 おれがどうなっているか、見届けてもらいたいのだ。
 いや、食べ物はいらない。七日前にもらったものも、まだ食べていないぐらいだ。

源大夫の最期

 住職は、源大夫に言われたとおり寺に帰った。そして約束を守って七日後に、また険しい峰を登って、源大夫のもとへ戻った。

 源大夫は、別れたときのまま、西を向いて木にまたがっていた。
 ただし、今は、息絶えている。
 源大夫の口からは、素晴らしく色あざやかな蓮の花が一輪だけ咲き出ていたという。

すべてを見ている

 誰もがどこかしら「やむをえない」と思いながら生きている。
 ところが他人は、いや他人だけではない、誰よりもまず自分は、その「やむをえない」ところを指して、「おまえが選んだことだ」「自業自得だ」と冷たい口調で責め続ける。

 自分が選んだだって?
 確かにそうだ。
 そのとおりだが、違うのだ。
 すべては自分のせいで、仕方なくて、やっぱり自分のせいだ。

 そんな歯切れの悪い、情けない、まとまらない人生を生きている。
 言い訳はできない。
 自分でさえ認められない生き方だから、慰めも励ましも、人に求める資格なんてない。

 ただ、誰かひとりだけでも、と心の底から願う、すべてを知っていてくれたら……。

 やむをえないことも、そうでないことも、善いことも悪いことも、幸運も不運も、みんな引っくるめて、誰か、このみっともない人生のすべてを見ていてくれないか。
 もしそんな誰かがいて、その眼差しを感じることさえできれば、それでもう十分だ、ぼくは自分の過去も現在も未来も「うん、そうだ、これがぼくの人生だ」と引き受けていけるんだ。

 こう言うと、奇妙に聞こえるだろうか。
 それとも、同意してくれるだろうか。

 冒頭でぼくは「源大夫の物語」のことを、「いつまでも心の中で深く美しい光を放ち続ける物語」であると書いた。
 そうだ。
 いや、それ以上だ。
 このわずか数ページの物語そのものが、ぼくにはときおり、「ぼくのすべてを見ていてくれる眼差し」のように感じられるのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
『今昔物語集』(本朝部 中)池上洵一編、岩波文庫、2001年

※口語訳は筆者(岡)が行いました

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

デュルケーム『自殺論』を読む

筆者:岡 敦
題名:デュルケーム『自殺論』を読む(生きるための古典 8)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年6月2日

 

大学の教室で

 今から数十年前、ぼくが二十歳前後のときだ。
 大学の教室で、ぼんやりと講義の始まりを待っていると、友人がひどく真面目な顔をして近寄ってきた。
 彼は小さな声で、同級生のAが自殺したと言った。
 その瞬間ぼくは、まるで熱いストーブに手が触れて飛び上がるみたいに、席から腰を浮かすと、調子はずれの声で「なぜ」と叫んでいた。

 いや、ぼくは自殺の理由を知りたかったのではない。遺書はあったのかとか、何か事情を知っているかとか、そんな詮索をしたかったのではない。たとえそのような話を聞いたとしても、自殺の理由などわかるはずがないと思っていたのだから。

 自殺者の最後の言葉が残されているのなら、もちろんそれを、記された文字のままに理解することはできるだろう。
 だが、ぼくらが本当に知りたいのは、彼がそのような言葉を残さざるをえなくなる、それまでの過程ではないか。当人にもどうにもとどめようのない、進む向きすらも変えられない、「必然的」と言いたくなるような心の流れ、彼がはまってしまったその流れと、そのときに彼が見ていた風景、耳にした音、心をよぎった想いではないか。
 その流れが尽きた時点で、最後の最後に彼の意識の表面に浮かんだ言葉だけに注目して、その言葉どおりに受け取ったところで、いったい何がわかるのだろう。
 そもそも言葉で言えるような事柄が彼の自殺の理由だったら、そして、そんなにも簡単に伝わり、容易に理解されるものであるなら、どうして自殺にまで至るだろう。
 そんなことはできないということ、つまり「自殺の動機など、外からうかがい知ることはできない」ということは、十代の中ごろからぼくはずっと考えていた。それなのに、同級生が自殺したと聞いたとたん、ぼくが最初に口にした言葉は「なぜ」だった。

 自分が発したその大声に、ぼくはとまどってしまった。
 違う、そんなことを尋ねたいのではない。
 そんな無力な詮索をしたいのではない。

 ぼくはAとは「会えば言葉を交わす」程度のつきあいしかなかった。しかし、知らせてくれた友人は、Aととても親しくしていたのだ。ひどいショックを受けている目の前の友人に向かって、ぼくはそんな質問をしたかったのではなかった。
 だが、知らせを聞いたぼくの頭の中は空っぽで、胸の中も、やはり空っぽだった。突然、場違いな空間に放り込まれたみたいに、視線の向き、手の置き所もどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
 ぼくは友人に向かって何か「ちゃんとしたこと」を言わなければと思って、口を開いた。

 そして、もう一度、「なぜ」と言っていた。

理由を信じない

 自殺が報じられるときは、必ずその動機、理由が添えられる。「病気を苦にして」「借金の返済に困って」といったふうにだ。また、自殺に関する本を開くと、必ず理由の一覧とそれぞれが何パーセントを占めるかを示した表が載っていて、それを前提に話が進められたりする。
 そういうものを目にするたびに、「そうかもしれない、しかし、そうではないかもしれない」とつぶやく。そして、「これを書いている人は、この『理由』を信じているのだろうか」と疑問に思う。そんな統計を信頼している論考は、どうしても本気で読む気になれない。
 しかし、フランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858年生―1917年没)が1897年に発表した『自殺論』は違う。彼は、そんな「自殺の理由」を決して真に受けたりはしない。

自殺者の先行与件のなかに、一般に絶望をもたらすとおもわれるなんらかの事実をいったん発見したと信ずると、人はそれ以上の詮索は不要だと決めこんでしまう。そして、当人は最近金銭上の損害をこうむったとか、家庭のもめごとに悩んでいたとか、いくらかの飲酒癖があったとかいうような噂にもとづいて、自殺の原因を、その飲酒癖や家庭の悩みや経済的打撃などに帰してしまうのである。このような疑わしい情報を自殺の説明の根拠とすることはできないだろう。(宮島喬訳)

 自殺の動機は、傍観者がいくら考えてもわからない。それどころか、当事者でさえ見誤っている可能性が高いとデュルケームは言う。

自殺する本人は、生からの訣別の行為をみずからに納得させるために、それをもっとも身近な周囲の事情のせいにする。(宮島喬訳)

原因は社会状態

 デュルケームは、傍観者の見立ても当事者の言葉も信じない。では、彼は自殺の原因をどこに求めるのか。
 社会だ。自殺の基本的な原因は「社会の状態」にあるというのが、彼の主張だ。人に自殺を促すような社会の状態があって、その状態の度が強まれば自殺者は増え、その度が弱まれば自殺者は減る。だから、自殺者ひとりひとりの個別の理由は重視する必要はない。自殺するような状態になれば、どんな理由ででも、ひとは自殺するのだから。

直接に自殺を思いたたせる、決定的条件のようにみえる私生活上の出来事はどうかといえば、それらは、じつは偶然的な原因にすぎない。個人が環境の与えるごく軽微な打撃にも負けてしまうとすれば、それは、社会の状態が個人を自殺のまったく恰好の餌食に仕立てあげているからにほかならない。(宮島喬訳)

 このように社会を極度に重視するデュルケームの自殺論に対しては、「個人無視のアプローチだ」等の批判がある。しかし、ぼくはそうは思わない。そもそも「病気」「貧窮」などの個人的事情に原因を求めれば、個人を重視していることになるのだろうか。

生きること自体

 自殺者に対する非難を、ときどき耳にする。
 「病気を苦にして自殺した」と見なされると、「重い病にもめげず、敢然と立ち向かっている人がいるのに、アイツは逃げた」などと言う。
 また、「経済的に苦しいから自殺した」と見なされると、「どん底から再起する人もいるのに、勇気がない」などと言う。

 そうなのだろうか。彼らは、病気や貧困に立ち向かうことなく逃げ出した、卑怯者、臆病者なのだろうか。
 きっと、そういう人もいるのだろう。だが、ぼくには、なかなか信じられない。
 納得できないのだ。
 いったい人間は、そんな個々の原因で自殺できるものだろうか。

 人間は動物だ。そうである以上、自己保存の働き、生きようとする衝動が何よりも強いはずだ。どんな状況になっても、まず生きることこそ最優先課題だろう。どんな困難、どれほどの障害が目の前にあったとしても、「だから死のう」などと思うはずがない。生命に比べれば「小さい」としかいいようのないトラブルのために、生命という最大級の価値を捨ててしまうなんて本末転倒だ。
 「生きること自体の否定」以外に、どうして生を放棄できるだろう。
 もちろん、具体的、現実的な何かは起こっているだろう。自殺の、最後のきっかけはあるに違いない。しかし、それはあくまできっかけに過ぎず、それをきっかけとして、「やっぱり、世界は肯定できない。生は苦痛なだけだ」とあらためて深く生を否定するからこそ、この世界、この生を消滅させようとするのではないのか。

 「生そのものの否定」による自殺者(ほとんどの自殺者はそういう人ではないかと、ぼくは漠然と想像する)の場合、彼らに対して「病気から逃げた」「困窮から立ち上がる根性がない」等と非難するのは的はずれであろう。
 またその場合、自殺防止のために個々の具体的な問題を解決することはもちろん必要だが、それは、いわば対症療法に過ぎないことになるだろう。自殺の根本的な解決は、世界苦、生の苦しみ自体の解決しかないのだから。

 今書いたことが正しいかどうかは、わからない。もしかしたらまるで見当違いかもしれないが、十代半ばごろから、ぼくはずっとそう思っていたのだった。

個々人の心の中

 デュルケームは、確かに、個々人の最終的なきっかけを無視している。しかし、それは個人無視ではない。むしろぼくには、普通によくある議論以上に自殺者ひとりひとりを重視しているように見える。
 なぜならデュルケームは、最終的なきっかけの前に、「まず、自分の生そのものを否定する状況がある、彼はその状況を生きていた、それゆえに自殺した」と言っているのだから。ぼくにはデュルケームが、死へ向かわざるをえない個人の心の様相を一生懸命に見つめているように思える。

 むしろ個人的な事情を知っただけで「自殺の理由」がわかったつもりになって、自殺者に向かって「苦しみから逃げた」「卑怯」「臆病者」などと非難の言葉を投げつける人こそ、人間ひとりひとりの、そこに至るまでの心の流れを見ようとしない、個人無視の態度をとっている。そう批判されるべきだ。

 デュルケームは二十代の後半に、自殺によって親友を失っている。学生時代の、つまり人間形成の時期をともに過ごした仲間だ。価値観も性格もわかっていただろう。自殺の理由も、誰かから聞かされたはずだ。しかし彼は、親友の自殺の理由と言われているものに納得できなかったに違いない。そういう経験があったからこそ、彼は自殺の理由について、公式発表も報道も本人の遺書さえも信じないのだろう。ぼくは勝手にそう思っている。

自殺の四タイプ

 社会の状態によって人々が「まず、生を否定しがち」になっている、そのうえで自殺が起こる。そうデュルケームは考える。だから、デュルケームが自殺を分類する際、その基準となるのは「自殺を引き起こす社会の状態の違い」である。

(1)個人と社会との結びつきが「弱い」から起こる →自己本位的自殺

(2)個人と社会との結びつきが「強い」から起こる →集団本位的自殺

(3)社会が個人の欲望を「抑制しない」から起こる →アノミー的自殺

(4)社会が個人の欲望を「抑え込む」から起こる  →宿命的自殺

 (2)は、「個人と社会との結びつきが強い」から自分が所属する集団のために死ぬ、というものだ。殉死や殉教などのことだから、ぼくらが普通に持っている「自殺」のイメージとは異なる。近代社会では少ないから、デュルケームはあまり積極的に取り上げない。
 (4)の「社会が個人の欲望を抑え込むから起こる自殺」は、過度に欲望を制限されたために起こる。「奴隷の自殺」などだが、これも近代では少ないので、デュルケームはやはりほとんど語らない。
 われわれに関わりがあり注目すべきなのは、(1)「自己本位的自殺」と(3)「アノミー的自殺」のふたつだという。

誰もいない劇場

 「自己本位」とは、社会の結束が緩くなって、個人が「所属する集団を気にかけず、自分のことばかりを重視している」状態である。

個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心にもとづく行為準則以外の準則を認めなくなる。(宮島喬訳)

 自分が属する集団のために貢献しようとは思わない。自分の個人的関心事以外は、すべて厄介事として軽視・排除する。「私的な快」だけが価値基準となる。すると、どうなるのだろう。
 人間の思考や行動は、もともとその動機、目的を社会の中に持っているものだ、とデュルケームは言う。ぼくらは社会の中で人々とともに、社会のためになる行動をするように、またそういうことに価値を感じるようにプログラミングされているのだ。
 だから、あまりにも自分にこだわって集団を無視するのは、人間本来の在り方からすると不自然なことだ。自分の思考や行動の目的が失われてしまい、何を考え、何をやっても価値を感じられず、虚しくなる。
 いわば、観客がひとりもいない劇場で舞台に立つようなもの。主役は自分だ。脚本も自分、演出も自分だ。ここではすべて自分の思い通りのことができる。しかし、自分だけで何を演じようと、どれほど巧みなパフォーマンスを誇ろうとも無意味だ。誰ひとり喜びもせず、評価もしてくれないのだから。
 やがて、「ぼくも、いいかげん舞台を降りてもいいのではないか、どうせ誰も見ていないのだから」と思い始めるだろう。

社会的人間はかならず社会の存在を前提とする。かれが表現し、役だとうとする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、われわれの周囲やわれわれの上に、もはや生き生きとした活動的根拠をすっかり失ってしまう。(宮島喬訳)

 こうして「確実に把握することのできる目標をなにひとつみとめることができず、自己を存在理由のない無用の者と感じて生を放棄する」に至る。これが「自己本位的自殺」だ。近代社会の自殺は、このタイプが基本であるとデュルケームは言う。

限度のない欲望

 「自己本位的自殺」は、意気消沈し、不活発になって死に至る。
 それとは反対に、社会性があって非常に活発なのに死に至るのが「アノミー的自殺」だ。「アノミー」とは何か?
 「分相応」という言葉がある。あれも欲しい、これもやりたい、などと望むものではない、ひとそれぞれにあった欲求や願望がある、ということだ。しかし、そんな言葉は「身分」といっしょに捨て去ったのが近代であり、資本主義である。ここでは、ぼくらの欲望は思いきり解放されている。何をどれだけ欲してもかまわない。それどころか、持っている欲が大きければ大きいほど、賞賛されたりする。

この欲望の解放は、産業の発展と市場のほとんどとどまることを知らない拡大によって、いっそう拍車をかけられた。〔中略〕いまやほとんど全世界の顧客を相手にすることも期待しうるときになっては、このかぎりなくひらかれている前途をまえに、どうして情念はかつてのような制限をあまんじて受けいれることができよう。(宮島喬訳)

 こうして個人の欲望を抑え込む規制が失われた状態のことを「アノミー」と呼ぶ。われわれの欲望は制限されていない。どんなものでも、どこまで欲してもよい。そうなると、どこまでいっても「これで十分、これで満足」とはならないから、何を手に入れても充たされなくなる。もっと、さらに、どこまでも、限りなく求め続ける。誰もがシャカリキになって、ひたすら前へ前へと進んでいく。

こうした傾向はいまやあまりにも慢性化しているので、社会もそれに慣れてしまい、むしろ常態とみなす習わしになっている。(宮島喬訳)

 馬に乗っている人が棒を手にしている。棒の先からヒモが垂れていて、その先にニンジンが縛ってある。自分が乗っている馬の目の前に、ニンジンをぶら下げているのだ。目の前のニンジンにかじりつこうと馬は前進するが、背中に乗っている人もいっしょに前へ移動するから、当然、馬はどこまで歩いてもニンジンを食べることができない……。
 この馬のようなものなのだ、アノミー状態を生きる人間は。つまり、われわれは。

アノミーの苦痛

 「何でも欲していい、どこまでも追求してよい」というのは、抑えつけるものがなく、前向きで良いことのようにも思える。デュルケームは、その何が悪いというのだろう。欲望を制限しないで、どこまでも追求し続けると、人間はどうなるのか詳しくみよう。

(1)幻滅と苛立ち

 何を手に入れても、「こんなものでは満足できない、もっともっとだ」と思う。目標を達成しても、そのとたんにそれは本当の目標ではなかったと知る。本当の目標は、もっと先にある。どこまでいっても満たされない。だんだん苛立ってくる。その苛立ちは、決しておさまることがない。

(2)挫折と怒り

 地位をなくすなどして欲望を満たせなくなると、自分は没落したと感じる。そして、激しい怒りにとらわれる。

当然その怒りは、真実にせよ思いちがいにせよ、かれが自分の没落の原因だとおもっているものにたいして向けられる。かりにその災難の責任が自分自身にあるとみとめれば、かれはみずからを恨むであろう。さもなければ、他人に恨みをいだくことになろう。前者のばあいには、自殺しか起こりえまい。(宮島喬訳)

(3)疲労と虚しさ

 目指す目的が遠すぎると、いくら進んでも「自分は前進している」と感じられない。そのため、やがて疲れ果て、虚しさを感じる。

そのような熱狂がすべて醒めてしまうと、人はその狂奔がいかに不毛なものであったかに気づき、新奇な感覚をいくら積み重ねてみたところで、それが幸福の確固たる元手――それによって人は試練の日々にも耐えることができる――とはなりえないことをさとる。(宮島喬訳)

解決策は「連帯」

 「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」は、どうすれば防げるのだろうか。デュルケームの答えは、「社会との結びつき」「連帯」である。

時間的に個人に先んじて存在し、個人よりも永続し、あらゆる面で個人をこえているような集合的存在に、個人はいっそう連帯を感じなければならない。このような条件のもとではじめて、個人は、自分自身のなかにみずからの行為の唯一の目的をもとめることをやめるであろうし、自分がさらに上位の目的の手段であることを理解し、自分がなにものかに役だっていることをさとるにちがいない。そうすれば、生活は、自然な目的と方向を見いだすとおもわれるので、かれの目にとってふたたび意味をおびてあらわれてこよう。(宮島喬訳)

 人々が尊敬し、自発的に従いたくなるような「権威」のある集合的存在が必要だ。それがあれば、欲望の制限もできる、つまりアノミー状態も改善できると言う。そして、そのような集合的存在としてデュルケームが挙げるのは「同業組合」である。

 正直に言えば、初めて『自殺論』を読んだ二十歳の頃は、「同業組合」と言われてもピンと来なかった。「連帯」で自殺が防げるとも思えなかった。この本の「実践的な結論」はつまらない、価値がないとさえ思った。

 しかし今は、同業組合はともかく、「連帯が自殺を防ぐ」という点については、少なくともある程度は正しいと思っている。二十代の中頃にひとつの経験をして、それは後になって考えると、デュルケームのその主張の正しさを証明しているように思われたからだ。
 極めて個人的な、それゆえ他人にはどうでもいい経験だけれど、たとえ想像上でしかなくても「連帯が自殺を防ぐ」という一例のようにも思えるので、最後に記しておこう。

ある夜の経験

 二十代半ばの、ある夜のこと。
 部屋の中で、ひとり考えていた。
 ぼくは、もう明日の朝は迎えられないだろう。
 何度も考えたことだけれど、本当にもう終わりにするときだ。

 自分がそう決めつつあることを自覚すると、それまで感情の奔流に押し流されていたというのに、急にその流れが止まり、波が静まった。圧倒的な力を感じていたその極致で、いっさいの力が消えた。
 何だか自分が、この身体が、とても不自然に感じられる。
 あれ、どうして、ぼくはここにいるのだろう。
 わからない。
 リアリティがまるでない。
 あるいは、そのリアリティが欠落していることが、ものすごくリアルに感じられる。
 時間が止まって、その止まっている中で、ぼくひとりだけ顔を上げて室内を見回している。
 そうして、いよいよ、今、ぼくはそのときを迎えたのだと思った。

 あまりにも冷静になったので、これは本当に実行してしまうのだろう。
 他人ごとのような変な言い方になってしまうが、実際、そんな風に感じていた。
 激情でもなく、覚悟でもない。
 それだけにいっそう現実的に思われたのだった。

名前も知らない仲間たち

 あたりまえかもしれないが、それでもまだ、ぼくは心の奥底で、死にたくはなかったのだろう。
 意識が何とか命綱をたぐり寄せようとしていた。
 そして、ついにこんな風に考え始めた。

 ぼくは、ありきたりの人間だ。
 ぼくと同じ資質の人、同じ条件を生きている人は、世の中にたくさんいるはずだ。
 もしぼくがここで死ねば、それはぼくと同類の人間を同時に否定することになるだろう。
 ぼくと同じ人間、いわば仲間に向かって、きみにも生きている資格なんてないよ、と決めつけてしまうのだ。
 それは、仲間に向かって死刑宣告をするようなものではないか。

 さらに考えた。
 もしも、今夜を耐えて明日の朝を迎えることになったなら、それは死刑宣告とは正反対であって、仲間に向かってエールを送ることになるだろう。こんなに駄目なぼくでさえ耐えたのだから、きみなら絶対だいじょうぶ、いっしょにがんばろう、と。

 決して顔を合わせることのない、名前も知らない、どこにいるのかも知らない仲間たちへエールを送る。
 テレパシーとは言わないけれど、それは必ずこの夜を越えて、かすかにせよ仲間たちへ届くはずだ。
 ぼくが明日まで生き延びるってことは、そういうことなんだ。

 まともなおとなが聞いたら、何の説得力もない、馬鹿げた考えだと思うだろう。そのとおりだ。
 しかし、もしぼくと同じ種類の馬鹿で、できそこなった人がいるなら、そして、もしそんな夜になってしまったら、考えてみてほしい。

 きみが死ねば、それは、ぼくらみんなに向かって「死ね」と言うのと同じ。
 きみが明日まで生き延びれば、それはぼくらみんなに「がんばれ」とエールを送ることになる。

 きみがそんな風にがんばってエールを送ってくれたら、ぼくは必ず受けとめる。そして、きみに応える。
 励ましてくれて、ありがとう。ありがとう、生きていてくれて。

 きみも聞きとってくれるだろうか。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
エミール・デュルケーム『自殺論』宮島喬訳、中公文庫、1985年

※「自殺とされているけれども、実態は他殺であるケース」等のことは、この文章の執筆時(2010年6月)には考えていませんでした。

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

『エピクロス』を読む

筆者:岡 敦
題名:『エピクロス』を読む(生きるための古典 7)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年4月13日


ぼくは外出に手間がかかる

 外出するとき、ぼくは、ひどく手間と時間がかかる。

 ガスの火は消えているか。蛇口から水が出続けていないか。
 そんな「ありえない」ことばかりが気になって、玄関のドアを三回も四回も出入りする。
 ガスの元栓は……閉まっている、やはり大丈夫だ。
 しかし、元栓から視線をはずした瞬間、再び、不安に襲われる。「自分の手がきちんと栓を閉めている映像」が鮮明に頭に浮かぶなら安心だ。そうできないときは、自分がたった今見たことなのに、どうしても信じられない。
 元栓を閉めている印象を強めようと、いったん栓を開けて、また閉め直したりもする。
 すると何ということだろう、「改めて閉めた」という事実よりも「ああ、今まで閉まっていた栓を、ぼくは今、開けてしまった」という悔いのほうが強く働いて、いっそうひどい不安にかられるのだ。

 狭い室内のことだ。気になることがどれほどあっても、やがて確認作業は終わる。
 だが、いったん馬鹿げた方向へ走りだしたぼくの頭は止まらない。むしろ加速する。玄関に突っ立ったまま、「気にすべきなのに、気にし忘れている確認事項はないか」と全力で考えている。
 ほんとうにぼくは阿呆だ。「心配し忘れていることはないか」とむりやり心配の種を探しているなんて。これでは、いつまでたっても安心できるわけがない。

 もちろん「外出時のチェックポイント一覧表」も作ってみた。それでも事態は変わらない。表の項目をすべてチェックしても、玄関から一歩出た瞬間に「ほんとうに表をちゃんと見たのか」「見落としはないか」と不安になり、さらに「そもそも表に書き忘れたチェックポイントがあるのではないか」と疑念で頭をいっぱいにするだけだ。

 まともな理由のない心配だから、歩いて駅にたどり着くころには、たいてい吹っ切れている。しかし調子が悪いときは(調子がいいときと悪いときがあるのだ)、電車に乗っていくつ駅を過ぎても不安は収まらない。ついには降車し、ホーム反対側の電車に乗って家まで戻ってしまう。
 そして「ぼくは馬鹿だ、もう一生、外出できないのではないか」と泣きたいほどの焦りを覚えながら、部屋の中を行ったり来たりして、100%問題ないと最初からわかっている元栓やスイッチを調べ続けるのである。

偶然の再会

 今から数十年前、ぼくがまだ二十代のある日、図書館で一冊の哲学書を手に取った。初めて見る本ではない。おそらく中学生のころに読んでいる。しかし、いくつかのつまらない印象しか残っていなかった。
 このとき手に取ったのは「たまたま」だ。そして、「たまたま」開いたページには、なぜか、ぼくの馬鹿げた内面が記されていた。

霊魂の最大の動揺は、〔……〕或る不合理な勝手な妄想をいだくことによって、そのような恐ろしいことを予期し懸念するにいたるところに生じることもある。(出隆・岩崎充胤訳)

 まるで、道ばたの占い師に心の奥底を言い当てられたような気がして、ぼくは驚きあわてた。すぐにその本を貸し出しカウンターへ持っていき、借りる手続きをした。そしてじっくり読み直した。
 中学生の印象とは異なって、今度は、とてもおもしろかった。それは「心の中の不安や動揺をなくすこと」を目的とした哲学だったのだ。書いたのは、紀元前341年にギリシアで生まれたエピクロスだ。

快楽主義者

 エピクロスと言えば「快楽主義者」として知られている。たしかに彼は「生きることはそれ自体よいことだ」と言い、「生の目的は快だ」と公言していたのだから快楽主義者と呼ぶのも間違いではない。
 しかし、エピクロスを「ひたすら快楽を追求する遊び人」のように想像するなら、それは違う。

快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)ことにほかならない。(出隆・岩崎充胤訳)

 「みんな、すぐ誤解するんだよ」と困り顔のエピクロスが目に浮かぶ、「私が言う快とは『苦がないこと』、つまり、いつも心が『平静』で、身体が『健康』なことなのにね」。

粗食の勧め

 それでは、たとえば「毎日おいしいものをたくさん食べる」というのはどうだろう。それは喜びをもたらすばかりで心を乱すことはないだろうから、エピクロスが求める「快」なのでは?
 「ほらね、やっぱり、わかっていない」エピクロスは笑いながら否定するだろう、「それは快ではない。私はみなさんに、むしろ『粗食』をお勧めしているぐらいだよ」と。

ぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんでもあり、また、生活上果たさねばならない用務にたいして人間をためらわずに立ち向かわせ、われわれがたまにぜいたくな食事に近づく場合に、これを楽しむのにより適した状態にわれわれを置き、また、運にたいして恐怖しないようにするゆえんである。(出隆・岩崎充胤訳)

 エピクロスは「粗食には四つのメリットがある」と言っている。

○粗食のほうが、健康になる。 
○美食のために時間や労力を使わない分、仕事ができる。 
○たまに食べるごちそうは、よりいっそうおいしくなる。 
○「運悪く質素な暮らしになる」ことを心配しなくなる。 

 粗食の勧めを見ると、エピクロスが求めているのは、目先の小さな快ではなく、持続的で大きな快であることがわかる。未来の大きな快のためであれば、当面の小さな快・不快など無視すべきだと彼は言う。

長時間にわたって苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快がわれわれに結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている、と考えるのである。(出隆・岩崎充胤訳)

 こうまで言われると、むしろ「禁欲主義」と呼びたくなるが、これがエピクロスの「快」なのである。

死は無関係

 快を求める、つまり苦しみや恐怖をなくそうとする。そんなエピクロスにとって、最大の敵は「死」だ。
 実際、「死」に対しては、たいていの人は平静でいられない。考えるだけで動揺し、目の前に迫れば苦しみに襲われる。
 エピクロスは、それにどう対処するのだろう。
 「死なんて関係ない」
 彼は、無雑作に言い放つ。

死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 確かに生きている人には、死なんて関係ない。死んだ人には、自分が死んでいることがわからないのだから、やはり関係ない。結局、死はぼくらが生きていようが死んでいようが関係ない……。
 このエピクロスの「死の克服法」の根拠は、彼の原子論にある。エピクロスは、すべては原子の集まりだと考える。霊魂の存在を認めはするものの、それさえも原子によって構成されているのだから、分散すれば消えてなくなると言う。そして、霊魂が分散して消えた死者は、死を感じることはないのである。

放り投げる

 初めて読んだ中学生のときは、この「死の克服法」が納得できずにいた。かすかにそんな記憶がある。単なる屁理屈かトンチ話のようにも聞こえて、おとなに口先でごまかされているような気がした。「こんな言葉で、死の不安がなくなるのかなあ」と冷ややかに読んでいたように思う。
 だが、二十代になって読み直したときには、ぼくは違う受けとめ方をしていた。
 死んだらどうなるのか。
 誰も経験的には、確かなことは言えない。
 そんな不確かなことに頭を悩まし、想像しておびえ、恐怖と不安で生を灰色にするなんてもったいない。
 いっそ「ぼくらに関係ないよ」と乱暴に放り投げて、恐怖も不安も忘れてしまったほうが得だ。
 エピクロスは、自分の「死の克服法」が正しいと主張しているのではなく、「そんなことは放っておけ」「無駄にネガティブなことを考えるな」と諭しているのではないか。

不安の克服

 実際(死の問題も含めて)逃げようのない緊急の問題にぶつかっているときには、このエピクロスが口にするような一見デタラメな言葉、馬鹿馬鹿しい言葉、無茶な言葉のほうが、かえって効果的に「救い」として働くことがある(それは、その問題に切実さを感じていない傍観者、たとえば死を切実に考えていなかった中学生のぼくには、単なる「屁理屈」「トンチ話」「乱暴な言葉」としか思えないだろうけれど)。
 エピクロスの「死の克服法」、この無雑作に放り投げたような言葉、「トンチ話」モドキは、そんな種類の言葉ではないのか。

 ぼくは外出時に不安にかられると書いた。そして、「調子の良いときと悪いときがある」とも。「最も調子が悪かった」のは、二十代のころ、上に書いた「エピクロス再読」の少し前、旅行に出かけたときだ。

 家を出て新宿駅に着き、ぼくは特急列車に乗り換えた。列車が動き出し、ビル街から住宅地へ、やがて緑が増えて、東京を離れつつあったとき、ぼくの頭はまたも無意味な室内安全点検を始めてしまった。
 びゅんびゅんと後方へ去っていく景色に顔を向けながら、もうぼくの眼は何も見ていない。頭の中が、ガスの元栓のことでいっぱいだからだ。ガス漏れ、火事、爆発……そんな大惨事の予感に胸の中は大揺れに揺れる。もちろん問題は何もないとわかっている。わかっているが、不安は収まらない。
 これは特急列車だ、あと三十分間は停車しないで走り続けるだろう。
 それで、次の駅に停車したらどうする?
 ぼくは、どうするつもりだ?
 旅行はやめて、列車を降り、東京に戻るのか?
 そして家の中を見回して、ああ、やっぱり何も問題はなかったと、あたりまえのことを確認するのか?
 無意味だ。
 馬鹿げている。
 あまりにも馬鹿げてはいるが、そうするしかないだろう。
 これほど動揺しながら、旅行など続けられるものではないのだから。

 家に戻ろう。
 ほとんどそう決めかけると、今度は、家でガスの元栓を確認している自分の姿が想像されて、別の種類の恐れを感じ始めた。
 もし今、家に戻ったら、と考えた。ぼくはこれから何度でも同じことを繰り返すだろう。特急列車に乗っては、途中下車して家に戻る。外泊の予定はすべてキャンセルする。二度と長時間の外出はできないだろう。それは困る。ひどい事態だ。今日は安心できても、この先の人生を失ってしまうではないか。しかし、この列車を降りて家に帰れば、自分がそうなってしまうことは、ほぼ確実のように思われた。
 さあ、列車から降りるのか、降りないのか?
 激しく迷いながら、時間は5分、10分と過ぎ、停車駅が近づいてくる。
 不安と葛藤の高まりで、ぼくは車内で叫び声をあげそうになった。

 そして、決めた。
 この列車を降りて家に戻ったら、ぼくはおしまいだ。
 そんなことをするぼくは、二十代にして、もう廃人だ。
 たとえ火事やガス爆発を防いでも、人生は終わる。
 それは駄目だ!
 廃人になってしまうぐらいなら、極悪人として生きたほうがマシ。
 ガスの元栓なんか、開けっ放しでいい。
 今、ガス台の上で炎がうなりをあげていたとしても、知ったことか。
 建物一棟、丸焼けになれ。
 100人死んでも、かまわない!
 自分勝手の極み、むちゃくちゃな考えだ。しかし、ぼくがとらわれているのは、もともと根拠のない心配、馬鹿げた不安だ。まともに理屈を考えたって、吹っ切れるものではなかった。
 実際、心の中でこんな「暴言」を吐くことで、やっと下車を思いとどまり、旅行中は、もう何も気にすることなく過ごせるようになったのだった。「馬鹿馬鹿しい言葉のほうが、かえって『救い』になることがある」と書いたが、それは、たとえば、このようなことである。

生きるための哲学

 エピクロスは自然科学者でもある。彼は神話を「作り話」と呼ぶ。神々を認めはするが、その神々は人間に都合のいいことも悪いこともしない。つまり、「いてもいなくても同じ」だと見なす。そうして、客観的な自然法則を探る。
 だが、その自然研究にしても目的は快のため、心の平静のためである。

天界・気象界の事象についての認識から達せられる目的は、〔……〕その他の事柄についての認識の場合と同じように、心境の平静と確乎たる自信にほかならない、と考うべきである。(出隆・岩崎充胤訳)

 そうであるからエピクロスは、自分の科学的な姿勢に固執することもない。そんなもの「心の平静」に役立たないと見れば、ただちに捨ててしまう。たとえば、「すべてが自然法則によって決定されている」かのように語る学者に対して、エピクロスは反発する。そして、むしろ神話を信じる人々を擁護する。

じつのところ、自然学者たちの主張する運命の奴隷となるくらいなら、神々についての作り話(神話)にしたがう方が、まだしもましであろう。なぜなら、神話の方は、神々を敬うことによって、運命を免れたいという願いが聞き届けられる希望をいだかせはするが、自然学者たちの主張する運命の方は、何らの願いもかなわない必然性をもっているからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 エピクロスは、客観的・科学的に現実を見極めたいと思う。だから自然を研究する。しかし、それは単なる知的好奇心からではない。より幸福に生きるためである。
 だから彼は「より幸福に生きるために」、客観的現実をしっかり直視したうえで、それがどれほど苛酷であっても絶望することを拒否し、なおも希望を語ろうとするのだ。彼は次のような言葉さえ口にする。

必然にしたがって生きることには、何の必然もない。(出隆・岩崎充胤訳)

 ぼくは、エピクロスのこんなところが大好きだ。
 現実を見つめつつ、硬直的に正しい言葉を繰り返すのではなく、人々がよりよく生きられるようにと、柔軟に話しかける。彼は言葉を、人の心を縛るためにではなく、人の心を解放するために使っている。
 こういう言葉に出会うと、「ああ、彼は『生きるために』哲学しているんだ!」と切実に思う。

老いの喜び

 「人生は棺を覆うまでわからない」などと言う。それはつまり、ひとりの人間の人生は、最終形態で善し悪しが判断できる、ということだ。あるいは、人生全体を完結したひとつの物語のように見通すことで、人生は評価できる、ということだ。
 エピクロスは違う。彼は、そう考えない。

「長い人生の終りを見よ」というは、過去の善きことどもにたいする忘恩の言葉である。(出隆・岩崎充胤訳)

 人生の本質は、その最終形態ではない。最期の姿が「結論」ではない。また、人生全体のストーリーが価値でもない。
 では、人生とは何だ。

 ぼくらには、常に「今」を一生懸命に生きるしかないではないか。
 日々、どうにか生き延びるだけなのだから、人生全体が出来の良いストーリーを形作るはずがない。素敵なエンディングを前もって用意しておく余裕なんて、あるわけがない。
 生きている「今」をただ積み重ねて、それが結果として自分の人生となる、そんなふうに生きるだけではないか。
 だから「今」を全力で輝かせるしかない。短い時間であれ、不安や苦しみを取り除いて、できるだけ「今」を充実させよう。
 そして、素晴らしい「今」を持ち得たのなら、それはいつまでも変わることなく胸の奥にとどまり、回想によって何度でもよみがえるだろう。そのとき、回想している現時点、この新しい「今」も、美しく輝くだろう。

 こうして回想によって人生が肯定されるのだとしたら、回想する「善いこと」が多いほど、幸福で良いことになる。つまり、長く生きれば幸福になりやすいのだ。だからエピクロスは、「老い」を嫌いもせず、恐れもしない。

若者がではなくて、美しく生を送ってきた老人こそが、祝福されていると考うべきである。というのは、男盛りの若者は、考えが定まらず、運によって、激しく弄ばれるが、老人は、かつては期待することすらむつかしかった善いことどもを、損なわれることなく安全に感謝の念によって包み、老齢を、あたかも泊まり場として、そこに憩うているからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 この回想がもたらす「善いこと」を強調するのが、エピクロスのひとつの特徴である。

ぼくの訃報

 彼自身が死の間際に書いた手紙にも、こう記されていた。

生涯のこの祝福された日に、そして同時にその終りとなる日に、わたしは君にこの手紙を書く。尿道や腹の病はやはり重くて、激しさの度を減じないが、それにもかかわらず、君とこれまでかわした対話の思い出で、霊魂の喜びに満ちている。(出隆・岩崎充胤訳)

 人は誰でも老いる。そして死ぬ。
 どれほど長くても、あと数十年。それだけ経てばぼくは死ぬ。
 そのとき、ぼくのそばに、誰かいるだろうか。
 どこかに、ぼくの訃報を受け取る人がいるだろうか。
 その人は、ぼくの人生をどんなふうに想うのだろう。

 外出に手間取る人間だ。万事がその調子の生活だから、「ひどく能率が悪い、ムダな人生だったね」と言われるだろうか。「つまらないことに右往左往し続けて、何のために生まれてきたのやら」と言われるか。
 そのとおり、ほんとうのことだ、しかたがない。

 しかし、もし今この時代にエピクロスが生きていて、ぼくの訃報を受け取ってくれたなら、とむちゃくちゃな想像をする。彼はぼくの人生を、そんなふうには見ないだろう。
 人に誇れるものなどひとつもない、このぼくの人生にも、それでも運や人の助けによって素敵に彩られた、回想すべきことはある。ひとつだけではない、いくつもある。
 「それならば」とエピクロスは言ってくれる気がする、「キミは幸福だ、キミの人生は素晴らしかったのだよ」と。

 かつて生きた素晴らしい「今」は、決して失われない。
 回想によって、それは何度でもよみがえり、今現在を喜びで満たし、輝かせる。
 それは、誰もが持ち得る快であり、善であり、喜びであり、宝である。
 幸福である。
 人生の価値である。

 エピクロスは「老い」や「人生」を、こんなふうに、暖かく、喜ばしく、肯定してくれるのだ。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
エピクロス『エピクロス』出隆、岩崎充胤訳、岩波文庫、1959年

※この本にはシロテン(句点と読点の中間の記号)が使われていますが、引用の際はすべて句点に置き換えました。

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

フロイト『精神分析入門』を読む

筆者:岡 敦
題名:フロイト『精神分析入門』を読む(生きるための古典 6)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年12月22日

 

ぼくは、なぜ、ここにこうしているのだろう

 気がつくと、ぼくはここに立っていた。

 ぼくがこのような仕事をして、こんなふうに生活しているなんて、若いころに一度でも想像しただろうか。ほんのわずかな予感でも脳裏をよぎることがあっただろうか。ない。まったくない。それが良いとか悪いとかではなく、ただ、いつのまにか想定外の人生を歩んでいる、このことが不思議でならない。

 どうして、こうなった……いつどこで想像していた道から外れたのだろう……。
 振り返ってみる。
 確かに、現実の力に押し切られて、意に反した選択をしたこともあった。誰かへの配慮で妥協したことももちろんある。しかし、たいていの場合、自分の考え自分の意志に従ってきたはずだ。それなのに、ぼくの人生はいつのまにか若い自分が抱いていた希望や心積もりから逸れていき、そしてぼくは、今、なぜか、ここにこうして立っているのである。

 人には心があり、心に従って生きていく。
 心が人生や生活のパイロットだ。
 ところがその心が、わかるようで、実は、ぼくにはよくわからない。
 心はとてつもなく広い。どこまで広がっているのか、見通すこともできないほど広い。
 また、心は暗い。どんなに目を見開いても、ほとんど何も見えないほど暗い。
 街灯も月明かりもなく、手元に灯るのは豆電球ひとつ。
 その光がおよぶわずかな範囲しか、ぼくには自分の心が見えていない。

 この果てしない闇の奥深く、強烈なエネルギーを持った何かが、のたうち回っている。姿は見えないけれど、そんな気配がする。足の裏に振動を感じる。予感と胸騒ぎがする。
 得体のしれないそいつに脅かされ、強いられ、追われ、そそのかされて、気がつくと、こんなふうに生きてしまっている……。

 『精神分析入門』を開くと、いつも、こんな想いが頭の中をぐるぐると巡るのだ。

やさしい手引き

 「精神分析」とは、人間の心を解き明かそうとするジークムント・フロイトの学説のことであり、また、それに基づいた心理療法のことでもある。『精神分析入門』は、精神分析の創唱者フロイトが著した、その入門書だ。

本書は、私が一九一五年から一九一六年にかけての二度の冬学期に、医師も非専門家も、男性も女性も加わった聴衆を前にして行った講義をそのまま再現させたものである。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 引用したのは序文の一節。書いてあるとおり、この本は講義の記録なので、文体は話し言葉、とても親しみやすい。しかも、素人に伝わりにくそうなことは繰り返し語ってくれる。
 初めてこの本を読んだのは中学生のときだった。年齢なりの浅い理解しかできなかったにせよ、ひと息で読み通してしまった。精神分析を一般向けに説明した本は多いけれど、「家元」が書いたこの本は、とりわけ、わかりやすくおもしろいのである。

悪い自分が顔を出す

 フロイトは開講にあたり、「人間には意識できない心の働きがある、という事実」を認めるよう聴衆に求める。

 彼は言う。心と意識を区別して考えよう。「自分の心」といっても、自分に見えている部分(=意識)は、そのうちのほんの一部に過ぎない。そんな意識には、基本的に自分の心の全容などわかりはしないのだ、と。

精神分析の世間に好まれていない第一の主張は、心的過程はそれ自体としては無意識的であり、意識的過程は心的全活動のたんに個々の作用面であり、部分であるにすぎないということです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 フロイトのそんな言葉を目にすると、決まって小学生時代の嫌な思い出がよみがえる。
 ぼくは何年生だったろう。ある日、祖母に向かい、ひどく悪いことを言ってしまった(何を言ったかは覚えていない)。悪気はなかった。そんな言葉を口にするつもりはまったくなかった。冗談を言おうとして外したのでもなかった。「魔がさした」というのだろうか、その一瞬、なんだか自分が自分でなかったみたいだった。
 言った直後に、そばにいた母に強くたしなめられた。しかし、自分がその言葉を発したという実感もなく、「え? あれ? 今、変なことを言ったのは、ぼく?」と、とまどっていた。ほんの数秒前の出来事なのに、まるで何年も前のことを思い出そうとしているような不思議な気持ちだった。「自分の心は自分では把握できない」と実感した、これが最初の経験である。

 また、こんなこともあった。遠足で電車に乗っていた。座る席がなく、ぼくは友人たちと立っていた。そのとき、とても仲の良かった友人に向かってひどい言葉を発してしまった(この言葉も覚えていない)。やはり、言ったのが自分だとは信じられないまま、呆然として謝ることもできなかった。言った本人であるぼくが、自分の言葉に驚いていたのだ。

 祖母や友人にむかって、なぜ悪い言葉を発してしまったのだろう。自分でもまったくわからない。だから、反省のしようもない。
 ただ、少し時間が経つと、自分なりにわかってきたことがあった。この「ぼく」というのは、本当は、自分では想像もできないくらい嫌なやつ、ひどい男、悪い人間ではないのか。そんな、どんよりとした暗く重たい疑いを、自分に対して抱くようになったのだ。
 うっかり気を抜くと、その悪い自分が顔を出し、ぼくを動かして、とんでもない振る舞いをさせるだろう。油断してはいけない。自分自身に対して、ぼくは警戒心を持つようなった(もちろん、当時このように考えたわけではない。今になって振り返り整理するとこんなふうに言えそうな「嫌な感じ」を、自分に対して持ったのである)。

酸っぱいブドウ

 ぼくたちは、もう「無意識」という概念に馴染んでいる。しかし、フロイトの講義を聴いた20世紀初めの理性的な紳士淑女たちは、そうではない。彼らのほとんどは「自分の内面は、自分がいちばんよくわかっている」と言いたかったはずだ。自分は、なぜこういうことをするのか、その動機はきちんと自覚している、希望を口に出して言うこともできるし、今考えている内容を説明することもできる、と。
 ところがそんな反論、フロイトは、まったく受け付けるつもりはない。意識されない心は、人間の言動を左右するだけではない。それについて、耳ざわりのよい理由や目的をこしらえる。いわば心は嘘をつく。そして自分の心がつく嘘を、意識はすぐに真に受けてしまう。つまり、自分(意識)は自分の心にだまされる。だまされていることを認めないとしたら、それこそ、完全にだまされているしるしである。フロイトは、そんなふうに考えている。

 自分が自分をだます方法のひとつに、たとえば「合理化」がある。この言葉は『精神分析入門』には出てこない。後の精神分析家が用いた言葉だ。
 合理化は、普通の言葉の使い方では「理屈に合わないやり方を改め、合理的に改革すること」だったり、企業において「生産性を高めるためにリストラすること」だったりするだろう。しかし、精神分析用語としての「合理化」の意味は異なる。「嫌な現実に直面すると、それを受け入れやすくしようとして、勝手な理屈をつけること」だ。

 よく合理化の例に挙げられるのは、イソップ寓話集の「狐とブドウ」だ。ブドウを見つけた狐は、それを食べたいと思う。ところが、身長が足りなくて、ブドウまで届かない。何度背伸びしてもジャンプしても駄目。ついに断念せざるをえなくなった狐は、ブドウに背を向けて「ふん、どうせ、あのブドウは熟れていないよ」とつぶやく。

 あのブドウは酸っぱい、だから食べられなくて、むしろよかった……このような理屈を自分に向けて語ることによって、(食べられなくて悔しいという)現実を直視しないようにしている。これが「合理化」だ。

錯誤、夢、神経症

 フロイトは、しかし、心の中は嘘だらけの真っ暗闇だ、と言っているわけではない。
 真実は、何らかの形で現れる。意外なことに、ド忘れや言い間違いや夢などの日常の中のささいな出来事として。だから、それに注目すれば心の中の真実もわかってくるはずだという。つまり、自分の心の働きは、真っ正面からその正体を目撃することはできなくても、ちょうど夜行性の動物の行動を調査するみたいに、足跡や糞、残り香などから遡るようにして推測できるのである。
 ぼくらのふだんの生活の中でも、たとえば嘘をつきがちな人と話しているときは、その人の話し方を観察して、言いよどみや繰り返しやこだわりに注目すれば、話のどこに嘘があるのか見当がつくこともある。そして、なぜそこで嘘をつく必要があるのかが想像できれば、その人の心の中もうっすらと見えてくる。
 フロイトは、そのようなやり方で心の中を探ろうとする。『精神分析入門』の内容は三部に分かれていて、それぞれ、「錯誤行為(ド忘れや言い間違い等)」「夢」「神経症」を取り上げている。それらは、無意識の過程の変形された現れだ。それらを通して、直接見ることのできない無意識の働きをつかもうというのだ。
 『精神分析入門』で語られるそんな話には、まるで探偵シャーロック・ホームズが依頼人のちょっとした癖からその人の生活や経歴を言い当てる場面のような、マジックめいたおもしろさがある。

リビドーという「人形遣い」

みなさんは、ほかでもない心の自由という錯覚を内心にいだいておられ、それを放棄したくないと考えていらっしゃるのです。残念ながらこの点では、みなさんと私とでは考えが全く相反しているのです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 人は、自分には見えない、心の中の大きな力によって、踊らされている。それが本当なら、人間は自分の意志を持つ立派な主体のつもりでいて、実は操り人形に過ぎないことになる。では、この自分という人形を操る「人形遣い」は誰だ。私を振り回す巨大なエネルギーを持つ何かとは、いったい何ものだ。
 フロイトはそれを「リビドー」と呼ぶ。それは「無意識のうちに快を求める力」であり、いわば「私の真の主体」である。

便宜上リビドーという概念を導入させていただきましょう。欲動を発現させる力をリビドーと名づけます。リビドーは飢えとよく似ています。飢えの場合には摂食欲動ですが、リビドーの場合には性の欲動です。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 リビドーは心の中に潜んで姿を現さないまま、私を動かし振り回している。それは快を求める性的な力だという。

 「性的」と言うけれど、しかしリビドーを「性欲」や「性行為における快感を求めるもの」と理解しては間違いになる。フロイトは「心と意識」を区別するように、「性的と性器的」という言葉を区別する。リビドーはあくまでも「性器的」ではなく「性的」なエネルギーだ。それは個人の自覚的な性欲を超え、生殖行動に限定されない、圧倒的な力なのである。

利己主義ではなく

 「二十世紀の思想は、十九世紀生まれの三人のドイツ語話者によって作られた」と言われる。マルクス、ニーチェ、フロイトだ。彼らに共通するところは、「人間は自分の言動の意味(動機、根拠、目的)を自覚していない」という考え方だ。彼らによれば、人間は自覚できない何かによって操作される「対象」であって「主体」ではないのである。
 このような思想を語る著作、とくにフロイトの本に触れると、次のような考えに向かいがちだ。

 人は自分で言っているのとは違う別の動機を持っている。それを自覚することはできない。隠された真の動機は、汚くて利己的なものだ。仕事も人間関係も、たとえ善行に見えることでも、結局は自分ひとりの利益、自分ひとりの快のためだ。それが人間というもので、アイツもアイツもみな同じだ……。

 まるで自分ひとりが他人の心の内を見透かしているような口ぶりだ。こんな調子で話し始めると、自分だけが物事の裏を読み醜い真実を直視しているような、悲壮で優越的な陶酔感が込み上げてくる。たとえば中学生のぼくのような未熟な読者は、『精神分析入門』を読むと、すぐにこんな言い方をしたがるのである。

 

 しかし、本当だろうか。ぼくらはかくも徹底的に利己的なのだろうか。

 もちろん違う。人間とは、そんなにも自分の利益ばかりを優先する生き物であるとは、フロイトは考えていない。

 自分の経験に照らし合わせてみてもわかるだろう。自分の言動のどれをとっても確かに利己的に快を求めているような気はする。しかし、すべては自分ひとりの利益や快楽のためという考え方をしていては、本当に満足のいく強烈な喜びが得られるわけなどないのである。そのことも、経験的に知っているはずだ。本質的にリビドーは、そしてリビドーによって動かされる人間は、「快を求める存在」であるからこそ、「利己的にだけ快を求める存在」なのではない。

実に性愛こそは、個体を越えて個体を種属に結びつける生体の唯一の機能なのです。この機能を行使することは、個体の、性以外の営みとはちがって、必ずしもつねに個体に利益をもたらすとはかぎりません。むしろ異常に高度な快感をあたえる代わりにその生命をおびやかし、しばしばそれを失わせるような危険に個体をおとしいれることは、まぎれもない事実であります。〔中略〕そして結局は、自分自身だけを大切に考えて、自己の性愛を他の諸欲動と同じくおのれの満足を得るための手段と見る個体などは、〔中略〕いわば自分の死後にも残る世襲財産の仮の所有者のごときものにすぎないのです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 人間の行動や思考を、根源から形作っていくリビドー。ひたすら快を求めるリビドーであるが、その完全な発露、究極のエクスタシーは、実は、自分自身の快を求めることによってではなく、共同体のために自らの生命を投げ出すときに訪れる、……読もうと思えばそう読めなくもない一節さえ『精神分析入門』には見出されるのである。

年月が変える印象

 初めて『精神分析入門』を読んだ中学生のとき、ぼくは単純に、人間はみんな偽善者なんだな、とだけ思った。美しい行為や正義の発言も、その「裏」を読めば必ず利己的な動機が潜んでいる……と。「裏読み主義」とでも呼べばいいのか、そんな浅はかな理解しかできなかった。

 しかし時が経ち二十代になってから読み直すと、そのときにはまるで別なふうに読めた。中学時代に抱いた印象に反して、この本には「誰もが利己的に自分の快を追求する」といった単純な人間像は描かれていなかった。むしろ、人間の表向きの言動を真に受けてはいけないが、しかし、裏読みを真に受けてもいけないよ、と諭されているように思われた。
 実際、中学生のぼくのように、心の内のネガティブな面ばかりに目を向け指摘して、真実を明らかにしたつもりになって、それでいったい何が得られるだろう。再読までの十年の年月が、そう考え直すことができる程度の経験を与えてくれた、ということかもしれない。かつてこの本を「裏読みのバイブル」のように読んで得意がっていた自分が恥ずかしくなった。読解力のなさを恥じたのではない。自分の品性の下劣さが恥ずかしくてたまらなくなったのだ。

 自分であれ他人であれ、内面なんて簡単にはわからない。わかっているふうな口をきいてはいけない。二十代のぼくはそう思った。自分のためとか他人のためとか、そんなこともわからない。人の心は、どこまでも汚く、どこまでも美しい。表と裏だけでなく、裏の裏、裏の裏の裏もある。
 だから、そんなこと、もう、どうでもいいではないか。わかったふりも裏読みもやめにして、「ねえ、おたがい理解しあえない同士、それでも何とかいっしょにやっていこうよ」と、ぼくは真顔で言ってみたくなったのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
ジグムント・フロイト『精神分析入門』懸田克躬・高橋義孝訳、人文書院、1976年

 

 

(C) 2022 OKA ATSUSHI

プラトン『ソクラテスの弁明』を読む

筆者:岡 敦
題名:プラトン『ソクラテスの弁明』を読む(生きるための古典 5)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年11月24日

 

死刑判決

 その昔、ひとりの男が裁判にかけられた。
 彼は哲学者。
 かけられた容疑は次の二つだ。

1・この国の神々を大事にしていない。
2・青年を堕落させている。

 哲学者は無罪を訴えた。いずれも事実と異なる、と。

 また、この告発は自分の哲学への非難であるとして、自己の哲学的実践の正当性を説いた。
 しかし、その主張は聞き入れられない。彼は多くの人に尊敬されていたが、また嫌われてもいたのだ。
 判決が下される。
 有罪。死刑だ。
 裁判からひと月が過ぎたころ、哲学者は刑に処せられた。

 紀元前399年に古代ギリシアの都市国家アテナイで起こった、これが「ソクラテス事件」である。

これは弁明なのか?

 法廷でソクラテスは無実を訴えた。自分が実際に行ってきた哲学的な行為(ソクラテスは本を書かなかったので、行為が彼の哲学の表現である)、その理由、目的、結果を語った。
 それは、弟子プラトンの手で記録され、『ソクラテスの弁明』という題名の哲学書として知られている。

 プラトンが書く哲学書は、戯曲のようなスタイルだ。登場人物たちの対話が繰り広げられるので、それを「対話篇」と呼ぶ。『ソクラテスの弁明』も対話篇だ。被告人が主人公だから、この本には、まるで法廷ドラマの脚本を読むようなおもしろさがある。
 しかし、読んでいると、だんだん妙な感じがしてくる。
 どこか変だ。
 これは、身に覚えのない罪で処刑されそうな男ソクラテスの、最後の公式発言の記録だ。彼は崖っぷちに立たされ、おまけに強風にあおられている。当然、死にものぐるい、悲痛な調子で語られるはずだ。
 ところが、彼の言葉には、そんなトーンはまったくない。彼は余裕を持ち、おそらくは笑みを浮かべて、あるいはいくぶん高飛車に、とうとうと論じているのである。
 そんな語り方をしては敵が増えてしまう。被告人ソクラテスには不利ではないか。なぜ彼は、人々の心に訴えて共感や同情を得ようとしないのか。なぜ、全力で自己弁護しないのか。

反感を買う

 同時代の歴史家クセノポンも、ソクラテスの言動を記録している。それによると、ソクラテスは裁判の前から「老いて生きるよりも死んだほうがよい」と考えていたらしい。つまり彼は、裁判に勝って死刑を免れようと望んではいなかった。だから法廷ではわざわざ反感を買うような口調で論じたのだ。いっそのこと、今すぐ死なせてほしい、と。 クセノポンが書いた「ソクラテスの弁明」には、ソクラテスの言葉がこう記されている。

もし今ぼくに有罪の判決が下されるなら、ぼくがつぎのような生の終わりを迎えることができるのは明らかだからだ。つまり、そのことを司る者たちによっては最も楽な終わり方と判断され、親しい者たちにとっては最も面倒が少なく、また亡くなった者に対する最大の思慕の念を植え付けるような終わり方をね。だって見苦しいことも不快なことも、何一つとしてそばにいる者たちの思い出の中に残すことなく、健康な体と、人を気遣うゆとりのある心を持ったまま息を引き取れるとするならば、どうしてその人物が惜しまれずにいようか。(三嶋輝夫訳)

 クセノポンは、「この人の知恵と高貴さを思うにつけ、どうしても私はかれのことを記録に残さずにはいられないし、また記録にとどめながら、ほめ称えずにもいられないのである」と書く。「死んで惜しまれよう」というソクラテスの目論見は成功したのだ。
 ソクラテス自身は一冊の本も書かなかったけれども、こんなふうにして「思慕の念を植え付け」られた友人や弟子が、ソクラテスの哲学や行動を大量に書きとどめることになった。そのおかげで、死後2400年を経た今も、ソクラテスはすべての哲学者の頂点に君臨している。「哲学者」と聞けば、誰もがまっさきに思い浮かべる名はソクラテス。そして彼の発言や行動が、哲学の典型のように思われている。
 これは、ソクラテスが人生最後に行った「捨て身のパフォーマンス」が実を結んだのだ、とも言えるだろう。

きっかけはお告げ

 プラトンの『ソクラテスの弁明』を開こう。そして、ソクラテスはどんな活動をして嫌われたのか、彼自身の説明を聞こう。
 まず、ことの始まりはこうだ。
 ある日、ソクラテスの友人が、都市国家デルポイにある神殿を訪れる。そのとき彼は、「ソクラテスより知恵がある人間はいない」というお告げを受ける。自分が親しく付き合っている人が「最高の知者」とされたのだから、これは嬉しいお告げだ。
 友人はソクラテスのもとへ行き、嬉々としてそのお告げを伝えたに違いない。しかしソクラテスは喜ぶどころか考え込んでしまった。
 「神のお告げを疑うわけにはいかないが、私がいちばん知恵があるはずはない。もっと知恵のある人はいる。大勢いる。彼らに合おう。彼らと話をして、まず、私以上の知者たちの存在を確認しよう。そうしたら、お告げに隠された深い意味がわかるかもしれない」
 いわば「お告げの反証」を求めて、ソクラテスは自他ともに「知者」と認める人々の扉を叩く(当時、「知者」と呼ばれたのは、政治家、職人、作家だという)。この人たちは、必ず、自分より知恵があるはずだと思って。
 ところが、何と言うことだろう。「お告げの反証」を求めていたというのに、逆に「お告げの正しさ」が確認されることになってしまった。「知者」と見られている人たちは、実際は誰ひとりとして、ソクラテス以上の知恵を持ってはいなかったのである。
 いや、問題は知識の量ではない。質だ。
 「『知者』たちは」とソクラテスは斬って捨てる、「本当に知るべきことを知らずにいる」と。

無知の知

 では、オマエはどうなんだ? と「知者」たちはソクラテスに問い返すだろう。ソクラテスよ、オマエは「本当に知るべきこと」を知っているというのか。
 ソクラテスは、おとぼけ屋で有名だ。平然と「私も知らない」と答えてみせる、「ただし私は『自分は知らない』ということを自覚している、その分だけ知恵があるとは言えるだろうな」と。

 「自分は知らない」と自覚しているかいないか。確かに、この差は大きい。無知を自覚している人は、これから知ろうとするだろう。きっと知るまで追い求める。その結果としてその人は無知ではなくなるかもしれない。その可能性がある。
 しかし、自覚していない人は知ろうともしないから、永遠に無知のままだ。無知から脱する可能性はゼロだ。

本当に知るべきこと

 いや、しかしソクラテスは、そんなふうに「知ったかぶりはいけない」「謙虚に学べ」と戒めているのではない。
 そもそも普通に考えれば、どの「知者」も立派な人たちだった。政治家は実務能力に長け、職人は見事に仕事をこなし、作家は巧みに言葉を操っている。みな、社会人として立派に活動し、地位を築いて暮らしているのだ。「知ったかぶり」なんかではない。いろいろなことを、実際よく知っていた。
 ところがソクラテスは、そのような現実的な知識には、少しも価値を認めないのである。ソクラテスは、ひたすら(彼言うところの)「本当に知るべきこと」にこだわる。それを求めているかいないかによって、人(の行動)の価値を判断する。「本当に知るべきこと」を求める人は良い。それを求めない人は駄目、と。ソクラテスがそれほどまでに価値を置く「本当に知るべきこと」とは、ではいったい何なのか?
 それは「徳」と言われる。徳とは当時のギリシアでは正義、勇気、節制、敬神などであるが、要するに「やるべきことを、やるべきように、やる」ことだ。
 そのためには、まず「やるべきこと」や「やるべきよう」を知らなければならない。しかしそれは、具体的にはソクラテスという「第一の知者」でさえ知らないのだという。
 この、人間は知らないが、知るよう努めるべきもののことを、後にプラトンは「イデア」と呼ぶ、と言いたい。

これぞボクシング!

 イデアとは何か。
 たとえば、とびぬけて素晴らしいボクシングの試合を見る。
 素晴らしい試合とは、1987年4月に行われた「マービン・ハグラー対シュガー・レイ・レナード」のような試合だ。舞台はラスベガス。技術、体力、精神、キャリア、どれをとっても史上最高レベルの選手ふたりが激突する、文字通りの頂上決戦だった。
 結果を言えば、この試合はKO決着ではなかった。一度のダウンシーンもなかった。いや、打ち合いさえろくになかった。
 しかし、何という試合だったろう!
 過去に観たすべてのボクシングの試合と引き換えにしても惜しくない、当時ブラウン管のテレビの前に正座して試合の行く末を見ていたぼくはそう思った。そして、こういう試合を観ると誰もが口にするであろう言葉を、やはりぼくも目に涙をためてつぶやいていた、「これぞボクシングだ」と。

イデアを知る時

 思わず口にした「これぞボクシング」という言葉。その「ボクシング」という語。これはいったい何を指しているのだろう?
 目に涙をたたえ、感動に声を震わせながら放った言葉だ。当然それには、遠く天を仰ぎ見るようして求める高い価値があるはずだ。だから、人々が持っているボクシングの「通念」などではありえない。自分がそれまでに見てきたボクシング全試合を足して割った「ボクシングの平均イメージ」でもない。もちろん、ボクシングのルールでも技術体系でも歴史でもない。
 そのときの「ボクシング」という言葉が指すもの、それは、ボクシングの「理想」である。もしも神さまが「理想のボクシング」を創造するとしたら、それはこんなふうだろう、というような。いや、もっと具体的に語れと言われても無理だ。説明できない。せいぜい「気配」「イメージ」「胸騒ぎ」として感じるしかない。
 ところが、「ハグラー対レナード戦」を見たときには、その「理想のボクシング」の姿が眼に見えた気がした。鮮烈な光に目を貫かれて、ぼくは自分が現にそれを見たことを知った。
 神々しく、美しいボクシング。身体の移動、拳の交換、その動作のひとつひとつが神々の聖なる戯れのようにも見える。そんな晴れやかでみずみずしく、どこまでも肯定的な試合があり得る……。

 これが「イデアを見ること」である、と言いたい。
 現実のもの(試合)を通じてイデア(この場合は「ボクシングのイデア」)を見る(知る)。そのときぼくらは深い感動を覚える。「ああ、これがそれだ」と、自分が何か大事なものを知ったことを自覚する。さらに、見ている当のもの(試合、さらにはボクシングという競技)だけでなく、自分や世界までもが肯定されているように感じる。

理想的な生き方

 また、たとえば、毎日いくつもの画廊へ足を運び、絵画を観るとしよう。もしかしたら、その多くはつまらない展覧会、パッとしない作品かもしれない。ところが数か月に一度、数年に一度、「これはすごい」と目を見張る作品に遭遇する。他の作品と比べて優れているというのではない。「絶対的にすごい」のだ。
 そんなとき「絵画ってすばらしいな」と思う。
 おかしなことだ。実際に眼にした作品のほとんどはつまらなかったというのに、その一点によって、「絵画」なるものが全肯定されてしまうのだから(まるで、それまでの「ハズレ」の経験も、それなりにみんなよかったと思い直しているかのように)。
 そうして、ぼくは、やけにうれしくなる。誰に向かってだかわからないが、「ありがとう!」と笑顔で言いたくなる。絵画だけでなく、ぼく自身も、この世界も、みんな肯定されてしまうのである。
 
 上の「絵画」という語は、他の芸術、スポーツ、仕事、趣味、何に置き換えてもいい。誰にでも、同様の経験があるはずだ。
 そのとき、「イデアをかいま見た」と言いたくなるだろう。直接見ることはできないイデアを、しかし、目の前の何かを通して知ったのだ、と。

 このイデアこそ「本当に知るべきこと」だとしよう。すると、「知る」とは、単に新たに知識を付け加えることではない。それは、ひとつの鮮烈な体験であるはずであり、自分と世界の肯定をもたらす感動が含まれているはずだ。さらにそれは、その後の自分の言動を方向づけてくれるはずである。

このような経験抜きに(つまり「絶対的にすごい」「イデアをかいま見た」と言いたくなるような経験なしに)何かを見聞きして知ったとしても、そんなものは、ソクラテスは本当の知識とは認めないだろう。本当に知っているとは認めてくれないだろう。

 現実に見る物事も振る舞いも、どれもイデアそのものではない。どうすればそこにイデアが見出されるのかも現れ出るのかもわからない。そういう意味では人はみな無知だ。
 しかし、そう自覚したうえで、無知に開き直るのではなく、あくまでも、イデアを求める姿勢をとれとソクラテスは言う。それを見るように、あるいは見せられるように、全力を尽くせ、と。それが、徳のある生き方なのであろう。

鬱陶しいぞ、ソクラテス

 確かに、誰も彼もがイデアを追求して活動するなら、それは素晴らしいことだろう。
 誰もが「これぞ消防士」「これぞ家具職人だ」等とうならせるような仕事を心がける。芸術家なら、「これが彫刻だ」「これが音楽だ」等と感動させる制作をする。
 なんて魅力的で活気のある社会だろう!

 しかし無理だ。そんなこと言われても……とぼくは下を向いてしまう。現実のぼくらは、古代ギリシアの哲学者ではない。定まらない日々を、せこせこと生きている。イデアを求めるより、まず目先の小さな利益を求める。理想なんて考える暇がない、とりあえず納期までに作業を完了させて次の仕事につなげるだけだ。そんなやりくりで今日をしのぎ、一年を耐え、たちまち十年が過ぎていく。
 そんなぼくらのもとへ、ソクラテスがやって来る。そして、オマエは無知だ、理想を追求しない、本当の仕事をしようとしない、と嫌みを言う。言い続ける。
 「ソクラテスとは、なんて鬱陶しい男だろう。どこかへ消えてくれないかな」とみんな思うだろう。
 ぼくも思う。

 だからソクラテスは訴えられ、有罪にされ、死ぬはめになったのである。プラトンは、次のようなソクラテスの言葉を記録している。

〔……〕皆さんは私〔ソクラテス〕の同国民であるにもかかわらず、私がいそしんでいる活動と言論に耐えることができず、その活動が皆さんにとっていささか重荷でもあれば厭わしいものともなった結果、それから今や解放されることを求めているのだ〔……〕(三嶋輝夫訳)

 ソクラテスに死刑判決を下したのは、2400年前のアテナイ市民ばかりではない。ぼくら自身が、日々、「うるさいソクラテスよ、消えてなくなれ」と死刑にしている。自分の心の内で、ソクラテスの首を絞めて、その声を聞こえなくしている。そうやって、理想など忘れた自分の生活を、なんとか否定しないで送ろうとしているのだ。

ソクラテス「への」弁明

 人はいつも、何かの力によって押し出されるようにして生きていく。
 人生の歯車の最初の1ミリの動きは、もしかしたら自分の意志によって動かしたのかもしれない。しかし、その動きは少しずつズレていく。見えないほどの微小なズレが、少しずつ狂いを生じさせて、気がつくと、取り返しがつかないほど大きくなっている。望んでなどいなかった不本意な運動に、いつのまにか変わっている。けれど、もう自分には方向を変えることも進行を止めることもできず、降りることもできない。ぼくらの人生は、そういうものではないか。
 他人はそれを「自業自得」と言うだろう。オマエが始めたことだ、オマエは好きこのんでそうしているのだと。
 そう言われれば、そうかもしれない。自分を顧みると、うなずいてしまう。
 いや、だが、しかし、違うのだ。
 こんな状況、誰が望んだりするものか。

 ソクラテスに言ってやりたい。
 あなたが批判する「知者」たちだって、ぼくらと同じように「仕方なかった」のだろう。彼らだって心の底では「本当に知るべきこと」、イデア、理想をきっと求めていたのだ。でも、諦めた。どうせ生活に追われてそんな方向へは進めないオレだ、できもしないことを語るのはみっともないから、理想なんて考えないことにしよう……心の中で恥じ、悔し涙をぬぐいながら、知者たちは無知のフリをして日々の営みに耐え続けたのかもしれないではないか。
 そんな彼らの気持ちを、一度でも想像したことがあるのか、ソクラテス?

ソクラテスの弁明

 ……とソクラテスに食って掛かって、彼自身と彼の言葉を自分の意識から追放してしまうに違いない。
 けれども、もしもそうしたら、その後で、やっぱりもう一度、ぼくはソクラテスと話をしたい、ソクラテスの言葉を聞きたいと思うだろう。きっとそうなる。せっかく鬱陶しいソクラテスを頭から追い払ってやったというのに、なぜだろう、すぐに彼が懐かしくなるのだ。
 ソクラテスをやっかい払いしたアテナイの市民たちも、すぐに後悔して、ぼく同様、ソクラテスと話をしたいと思ったはずだ。ソクラテスよ、黄泉の国から戻ってきてくれないか、と。
 
 そして、もしもソクラテスが(黄泉の国から)戻ってきたら、彼はきっとこう言うだろう。
 いや、誰もが押し出されるようにして生きていることは、ちゃんとわかっているんだよ。
 私だって、そうだ。
 同時代の戯曲に、私は滑稽な人物として描かれているんだ。これでは世間では軽んじられ、笑いものにされるはずだよ。不本意だけど仕方のないことさ。
 ところが人生最後のパフォーマンスが幸いして状況は一変した。そうだろ? これが成功しなければ、私は「滑稽な人物」のままだったろうね。私はこのとき法廷で、もしかしたら「哲学者」のイデアをかいま見せることができたのかもしれないな。だから、友人や弟子たちが多くの記録を残して、私の哲学をきちんと伝えてくれたのだろう。そうして、その結果、笑いものにされずにすんだ……。
 ほら、私だって決して思い通りに生きられたわけではないよ。いつだって綱渡りさ。だから、わかるんだ。誰もが不本意ながら、押し出されるようにして生きているというのは、そのとおりだと承知している。「知者」たちの心情だって、もちろん察しているよ。
 しかし、そのうえで、私はそれでも、イデアを見よ、体現せよ、理想を求めろと無理なことを言うのだ。鬱陶しいかもしれないけれど、何度でも繰り返し言うさ。
 だって、押し出されて行くだけで、キミは納得して生きていけるのかね? 理想を求めることもなく、それで本当に生き続けられるのかね?

おっしゃるとおりです、ソクラテス

 「いや、まったくです」と、まるでプラトンの「対話篇」の登場人物のように、ぼくは素直に答えるだろう。
 「おっしゃるとおりです、ソクラテス。理想なんて言っていられない、これが自分の精一杯だと、いつだっていくらだって言い訳はできるし、事実そのとおりなのだけれど、本当は、自分でも納得なんかできやしません。無理だろうと無茶だろうと、青臭くて現実味がなかろうと、ぼくらはろくに残ってもいない力を振り絞り、やっぱり理想を求めるしかないのです」と。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』三嶋輝夫・田中享英訳、講談社学術文庫、1998年
(プラトン「ソクラテスの弁明」三嶋輝夫訳、およびクセノポン「ソクラテスの弁明」三嶋輝夫訳は、この本に収録されています。)

 

 

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