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明るい庭の小さな兄

筆者:岡 敦
題名:明るい庭の小さな兄(すべてはいつか、笑うため。 4)
初出:月刊『Hanada』2020年10月号

 

 あれは兄がまだ幼稚園児だった頃、そしてぼくは……いくつだったのだろう。
 夏のよく晴れた日の午後、ぼくは薄暗い畳の部屋で昼寝をさせられていた。横では、まだ若い母が添い寝して、病弱な次男を眠らせようと、小さな声で歌を歌っていた。
 あいにくぼくは少しも眠くない。昼寝なんかしたくない、と思う。それでも母に逆らうことなく、命じられるままに眠ろう眠ろうと努めていたのだった。不眠のときのじりじりする気持ち。それとは反対に、午後の時間はゆっくりと、止まりそうな速度で流れていた。
 
 この部屋は庭に面していた。庭との境に引き戸が立てられていて、戸には水平の桟が四本、薄く割れやすい板ガラスを支えている。
 夏の引き戸は片側へ寄せられ、小さな庭に向かって部屋は大きく開け放たれている。
 
 添い寝していた母が、ぼくより先に眠りに落ちた。歌はもう聞こえず、かわりに規則正しい寝息が聞こえる。ぼくひとり置いていかれた。つまらない、つまらない……
 ぼくは天井を見た。天井の板の木目の模様。壁を見た。白い漆喰壁、ぼくたち子供の貼ったシールの跡が汚い。
 
 だんだん体が落ち着かなくなる。もぞもぞと手を動かす。足をずらす。首を巡らせる。
 庭の方を見た。
 畳の果てに、引き戸のレール。
 その向こうに濡れ縁がある。
 そして小さな庭。夏の午後の強烈な陽が降り注ぎ、庭の空気を思い切り熱している。
 そこに兄が立っていた。
 
 幼稚園に通う三歳上の兄。
 短気で強気な性格の証拠に、眉と目の中心に力がみなぎる。
 口元は笑っている。でも、「優しく」ではない。何か悪戯を思いつき着手するときの笑い、これから起こることを予期するときに浮かび出る笑みだ。
 その兄が、ぼくに向かってさかんに手で合図を送り、こっちへ来いと呼んでいる。大声を出すと母が目覚めてしまうから、聞こえないほどのカスレ声で、「アツシ、アツシ」と繰り返している。手も口も、誘うというより、むしろ命じる調子で。
 時間が静止した薄暗い部屋にいるぼくの目に、庭に立つ兄はまぶしいほどに輝き活き活きとして見えた。
 
 母の顔を見る。母はぐっすり眠っている。
 兄を見る。兄はますます大きく手を動かし、早く早く何やってるんだ、とぼくを急がせる。
 昼寝をせよと命じた母と、庭に誘い出そうとする兄。ふたりの間で少し迷い……そうしてぼくは、母からそっと離れた。
 畳の端まで這って進み、濡れ縁に出る。そして庭に足を下ろすやいなや、兄といっしょに外へ駆けだしていった……
 
 これがぼくの記憶する、もっとも幼い兄の姿だ。明るい庭に立ち、暗い部屋から外へ誘い出そうと、悪戯っぽい笑みを浮かべて手招きする兄。
 
 思えば兄の誘いには、いつだって最初から、少し悪くて少し危ない気配が漂っていた。実際、ついていけば、たいてい最後はひどい目にあった。
 けれど、何度そんな思いをしても、たくらみを秘めて目を輝かせ「遊ぼうぜ」「やろうぜ」と誘う兄には、逆らえない説得力と、何よりも魅力があった。
 兄の魅力……大袈裟に言えば、兄の誘いに乗っていっしょに何かを始めると、そのとき急に世界が活気づくのだ。時間の流れが勢いを増し、痛快なことが起こる予感がする。体にエネルギーを感じて、何もかもうまく行く気がしてくる。
 そうして、兄といっしょになってこう思うのだ、生きることっておもしろいな、じっとしてなんかいられないよ、明日もきっと楽しいぞ、と。
 
 それは子供の頃だけの話ではない、大人になっても誰にとっても、兄はそんなふうだったろう。ここに記した、ぼくの頭の中の幼い兄の映像は、それゆえ兄の一生の在り方を、少なくともその大切な一面を、象徴しているように、ぼくには思われるのである。


  *  *  *


 この連載の執筆者だった兄・岡康道は、先月、「死は肩に乗っていた。すぐにどこかへ飛んで行ってしまったけれど」と記しています。けれども死はすぐに舞い戻り、兄の肩を、今度はがっちりつかまえると、ついに離してくれなかったのでした。
 この連載エッセイ「すべてはいつか、笑うため。」は、十六年間一九〇回掲載されました。自分の手で最終回を書くことはかなわなかった……とはいえ、こんなにも長いあいだ皆様に支持していただいたのですから、兄はもう心から満足して笑いながら旅立った……ぼくはそう信じています。読者の皆様、編集・制作してくださった皆様、兄に代わり御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました。

 

 

付記
この文章を書いたのは2020年8月3日、兄の死の三日後でした。読者に何を伝えなければいけないか……この書き方で意味は通じるのか……そんなことも考えられずに、ただキーボードの上に置いた指を動かしていました。

 

 


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