筆者:岡 敦
題名:『今昔物語集』を読む(生きるための古典 9)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年8月24日
今昔物語集
『今昔物語集』は、平安時代の末期(12世紀の初め)に成立した仏教説話集だ。作者未詳。書き出しはすべて「今は昔……」で統一された、1059編の物語だ。
ぼくは全編を読んではない。機会があるたびに、つまみ食いのようにして読んだだけだ。中には、おもしろい話もあったし、退屈な話もあった。
そして、ときには、この「讃岐の国の多度の郡の五位、法を聞きて即ち出家せる語(さぬきのくにのたどのこおりのごい、ほうをききてすなわちしゅっけせること)」のように、いつまでも心の中で深く美しい光を放ち続ける物語に出会うこともあった。
極悪人源大夫
舞台は讃岐国の多度郡(今の香川県仲多度郡の多度津町や善通寺市あたりらしい)。そこには源大夫(げんだいぶ)と呼ばれる極悪人がいて、毎日のように人を傷つけ殺すものだから、地元の人々にずいぶん恐れられていたという。
ある日のこと、源大夫は4、5人の手下を連れて狩りをした(当時の感覚では狩猟も悪事だった)。その帰り道のこと、一行がお堂の前にさしかかったとき、源大夫はそこに大勢の人が集まっていることに気がついた。
この連中はいったい何をしているのかと手下に問うと、「講」と答える。僧侶が講師となって人々に仏法を説いているのである。
仏教嫌いの源大夫だが、ふと好奇心にかられて馬から降りると、ひとり、お堂の中へ入っていった。
彼は講師をにらみつけ、腰の刀に手をやりながら言う。
おれが心から「もっともだ」と納得することを話して聞かせろ。できなかったら、おまえにとって不都合なことになるぞ。(筆者訳)
重罪人も救う
講師は恐ろしさに震え上がった。そして、心の中で仏に助けを求めながら話し始めた。
ここから西の方、多くの世界を過ぎたところに、阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏さまがおられます。その仏さまはお心が広いので、長年にわたって罪を重ねた人であっても、改心して一度でも「阿弥陀仏」と唱えれば、必ず迎え入れてくださいます。そうなると、豊かですばらしい国に、しかも願いごとはすべてかなう身に生れ変って、ついにはその人自身が仏に成るのです。(筆者訳)
「阿弥陀仏は、その名を呼びさえすれば、誰でも助けてくださる」のだという。仏の慈悲の広大さを説く、ありがたく尊い教えだ。
しかし、そのような話、この人殺しの源大夫が納得するだろうか。「馬鹿なことを言うな。そんな甘っちょろい仏がいてたまるか」と怒り出し、刀を抜いて講師を殺してしまうに違いない……。
ところが、源大夫の反応は意外なものだった。
「その仏はすべての人を、哀れまれるというのか。それなら」と僧に尋ねる、「このおれも憎まれたりしないのだな」。
講師は肯定した。
すると、源大夫はさらに尋ねる。
「ならば、おれがその仏の名をお呼びしたら、仏はお答えになるのだろうか」。
「やむをえない」
極悪人の源大夫が、阿弥陀仏の話に心動かされている。
彼にしても、自分の血まみれの人生を肯定していたわけではないのだ。
やめられるものならやめたい、新しい生活を始めたい。
しかし、やめられない……。
人生の歯車は、気が遠くなりそうなほど複雑に組み合わされている。何がどう連動するかなんて、誰にも決して見通せない。
最初に自分が何を思い、何を意図して始めたにせよ、その後は想像すらできなかった状況が次々に現れて、いつもそのまっただ中に、途方に暮れた自分が立ちすくんでいる。
こんなはずではなかった。
どこかで間違ってしまった。
でも、今さら引き返せない。もう、どうしようもない。いつのまにかこうなって、既にこの人生から抜けられなくなっている。
「これが自分の人生だ」と納得して引き受ける、そんな心境には成れるはずもないが、他に選択肢がなければしかたがない、不満があっても、間違っていると思っても、この暮らしを続けるほかない。
他人の目には「好き勝手」「自由奔放」に見えたとしても、実際はみんなこうして、多かれ少なかれ「やむをえない」と思いながら、言い訳もせず、泣き言も言わないで、それぞれの人生を生きているのではないか。
重い扉が開く
源大夫も、そんなふうにして悪事を重ねてきた。だから、弁解もしないが、反省もしない。
今さら仏像を拝んだって、地獄落ち必定だ。過去の暮らしも今の暮らしも地獄のようなものだが、この先どうしたって、やはり地獄が待っている。おれには地獄暮らし以外、選択肢はない。
そう思っていた。
ところが今聞いた話では、阿弥陀仏は悪人だって哀れんでくれるというじゃないか。
そんなことがあるのか。
このおれが救われるなんて、ありえるのか?
「ない」と思って諦めていた別の選択肢が、「あった」とわかる、いや、「あるかもしれない」と思えたら、それだけで、目の前の大きく重い扉が開かれた気がする。
開かれた扉の向こう側には、果てしなく広い、しかも自分を迎え入れてくれそうな空間が広がっていて、そこから優しく風が吹いてくる。源大夫は、今、その風をかすかに頬に感じている。
源大夫の決心
「おれがその仏の名をお呼びしたら、仏はお答えになるのだろうか」と源大夫は講師に問うた。
返ってきた言葉は「嘘偽りのない真実の心でお呼びするなら、お答えになるでしょう」だ。
源大夫の決断は速く、行動は徹底している。
その場で、手下たちに解散を告げる。
躊躇なく頭髪を剃り、着ていた服を脱ぎ捨て、粗末な衣に着替える。
武器を置いた代わりに、金鼓(こんぐ)を首にかける。
おれは、ここから西に向かう。阿弥陀仏の名をお呼びし、金鼓を叩いて、答えていただけるところまで行こうと思う。お答えをいただけないうちは、野山があろうと海河があろうと、けっして引き返しはしない。ただ西に向かって突き進むだけだ。(筆者訳)
応答を求めて
源大夫は、何もかもを捨てて、ただ阿弥陀仏の応答を求めている。
なぜ彼は、返事が欲しいのだろう。
いったい、どこに、いきなり財産や権力を捨ててしまうほどの価値があるのだ?
源大夫は考えただろう。
極悪人でさえ哀れむという阿弥陀仏なら、きっとおれの惨憺たる人生だって、わかってくれる。
「やむをえなかった」なんて誰にも決して言いはしないが、そう言いたくなるようなことは、ずいぶんたくさんあった。阿弥陀仏は、そんな場面もすべて見て、知って、わかっているはずだ。
阿弥陀仏が本当にいらっしゃるなら、もちろんおれの人生など肯定するはずはないけれど、しかしきっと、おれに向かって、「わかっているよ」と、うなずいてくれるだろう。
それだけでいい。
そんなふうに阿弥陀仏がうなずいてくれるなら、それだけで、おれは、自分の過去を、納得して引き受けることができる。
阿弥陀仏よ、本当にいらっしゃるなら、そしてこんなおれでも見ていてくださるのなら、どうかひとこと、そうお知らせください……。
ひたすら西へ
「阿弥陀仏やぁ、おおい、おおい」と大声で呼びながら、源大夫は西へ向かって歩き出す。
深い川があっても、浅瀬を渡ろうとはしないで、そのまま進む。
高い峰があっても、迂回路を探したりしないで、まっすぐ登っていく。
倒れても、立ち上がって、また歩き出す。
どれほど歩いただろう。日が暮れてきた。
源大夫は、ひとつの寺に行き着いた。
応対に出てきた住職に、源大夫は自分の事情と決意を話し、頼みごとをする。
おれは、これからさらに西を目指し、高い峰を越して歩いていく。
もし食べ物があれば、ほんの少しでいい、分けてほしい。
そして、七日経ったら自分の後を追って来てくれないか。(筆者訳)
住職は了解した。
そして今夜はこの寺に泊まるよう勧めるのだが、源大夫は断って歩き去ってしまった。
二股の木の上
七日が過ぎた。
住職は約束を守って寺を立ち、源大夫を追って西に向かう。
高い峰を越え、さらに高く険しい峰に登る。
すると、西の方に海が見えた。
そこに二股の木が生えている。
股のところには、あの源大夫がまたがっている。
金鼓を叩き、阿弥陀仏の名を呼びながら。
源大夫は、住職が来たことに気がつくと、とても喜んだ。
源大夫は言う。
おれは、ここからさらに西に行き、海にも入って行こうと思っていた。しかし、ここで阿弥陀仏に答えていただけたので、この場所に留まってお呼びしているのだ。
阿弥陀仏の声
住職は、不審に思う。
この得体の知れない男は、阿弥陀仏が自分の呼びかけに答えてくれたという。
そんなこと、信じられるものか。
今まで多くの高僧が念仏を唱えてきたが、阿弥陀仏が声を発して答えるなんて話は聞いたことがないぞ。
それで住職は、阿弥陀仏はどんな返事をしたのかと尋ねる。これは相手の答えを頭から疑ってかかる、意地悪な質問だ。
源大夫は答える。
「それならば、お呼びしよう。聞くがいい」と言って、「阿弥陀仏やぁ、おおい、おおい。どこにいらっしゃいますか」と叫んだ。すると、海の中から素晴らしく美しい声がして、「ここにいる」とお答えになった。(筆者訳)
源大夫の呼びかけに、阿弥陀仏が答えている。
信じがたいことだが、今この耳で確かに聞いた。
こんなことが本当にあるのだ。
住職は、ありがたくて、もったいなくて、地面に伏せて大声で泣き続けた。
源大夫もまた涙を流しながら、住職に言った。
あなたは、もう寺に帰ってくれ。
そして七日たったら、またここへ来てほしい。
おれがどうなっているか、見届けてもらいたいのだ。
いや、食べ物はいらない。七日前にもらったものも、まだ食べていないぐらいだ。
源大夫の最期
住職は、源大夫に言われたとおり寺に帰った。そして約束を守って七日後に、また険しい峰を登って、源大夫のもとへ戻った。
源大夫は、別れたときのまま、西を向いて木にまたがっていた。
ただし、今は、息絶えている。
源大夫の口からは、素晴らしく色あざやかな蓮の花が一輪だけ咲き出ていたという。
すべてを見ている
誰もがどこかしら「やむをえない」と思いながら生きている。
ところが他人は、いや他人だけではない、誰よりもまず自分は、その「やむをえない」ところを指して、「おまえが選んだことだ」「自業自得だ」と冷たい口調で責め続ける。
自分が選んだだって?
確かにそうだ。
そのとおりだが、違うのだ。
すべては自分のせいで、仕方なくて、やっぱり自分のせいだ。
そんな歯切れの悪い、情けない、まとまらない人生を生きている。
言い訳はできない。
自分でさえ認められない生き方だから、慰めも励ましも、人に求める資格なんてない。
ただ、誰かひとりだけでも、と心の底から願う、すべてを知っていてくれたら……。
やむをえないことも、そうでないことも、善いことも悪いことも、幸運も不運も、みんな引っくるめて、誰か、このみっともない人生のすべてを見ていてくれないか。
もしそんな誰かがいて、その眼差しを感じることさえできれば、それでもう十分だ、ぼくは自分の過去も現在も未来も「うん、そうだ、これがぼくの人生だ」と引き受けていけるんだ。
こう言うと、奇妙に聞こえるだろうか。
それとも、同意してくれるだろうか。
冒頭でぼくは「源大夫の物語」のことを、「いつまでも心の中で深く美しい光を放ち続ける物語」であると書いた。
そうだ。
いや、それ以上だ。
このわずか数ページの物語そのものが、ぼくにはときおり、「ぼくのすべてを見ていてくれる眼差し」のように感じられるのである。
注
引用は下記の本に拠りました。
『今昔物語集』(本朝部 中)池上洵一編、岩波文庫、2001年
※口語訳は筆者(岡)が行いました。
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