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デュルケーム『自殺論』を読む

筆者:岡 敦
題名:デュルケーム『自殺論』を読む(生きるための古典 8)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年6月2日

 

大学の教室で

 今から数十年前、ぼくが二十歳前後のときだ。
 大学の教室で、ぼんやりと講義の始まりを待っていると、友人がひどく真面目な顔をして近寄ってきた。
 彼は小さな声で、同級生のAが自殺したと言った。
 その瞬間ぼくは、まるで熱いストーブに手が触れて飛び上がるみたいに、席から腰を浮かすと、調子はずれの声で「なぜ」と叫んでいた。

 いや、ぼくは自殺の理由を知りたかったのではない。遺書はあったのかとか、何か事情を知っているかとか、そんな詮索をしたかったのではない。たとえそのような話を聞いたとしても、自殺の理由などわかるはずがないと思っていたのだから。

 自殺者の最後の言葉が残されているのなら、もちろんそれを、記された文字のままに理解することはできるだろう。
 だが、ぼくらが本当に知りたいのは、彼がそのような言葉を残さざるをえなくなる、それまでの過程ではないか。当人にもどうにもとどめようのない、進む向きすらも変えられない、「必然的」と言いたくなるような心の流れ、彼がはまってしまったその流れと、そのときに彼が見ていた風景、耳にした音、心をよぎった想いではないか。
 その流れが尽きた時点で、最後の最後に彼の意識の表面に浮かんだ言葉だけに注目して、その言葉どおりに受け取ったところで、いったい何がわかるのだろう。
 そもそも言葉で言えるような事柄が彼の自殺の理由だったら、そして、そんなにも簡単に伝わり、容易に理解されるものであるなら、どうして自殺にまで至るだろう。
 そんなことはできないということ、つまり「自殺の動機など、外からうかがい知ることはできない」ということは、十代の中ごろからぼくはずっと考えていた。それなのに、同級生が自殺したと聞いたとたん、ぼくが最初に口にした言葉は「なぜ」だった。

 自分が発したその大声に、ぼくはとまどってしまった。
 違う、そんなことを尋ねたいのではない。
 そんな無力な詮索をしたいのではない。

 ぼくはAとは「会えば言葉を交わす」程度のつきあいしかなかった。しかし、知らせてくれた友人は、Aととても親しくしていたのだ。ひどいショックを受けている目の前の友人に向かって、ぼくはそんな質問をしたかったのではなかった。
 だが、知らせを聞いたぼくの頭の中は空っぽで、胸の中も、やはり空っぽだった。突然、場違いな空間に放り込まれたみたいに、視線の向き、手の置き所もどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
 ぼくは友人に向かって何か「ちゃんとしたこと」を言わなければと思って、口を開いた。

 そして、もう一度、「なぜ」と言っていた。

理由を信じない

 自殺が報じられるときは、必ずその動機、理由が添えられる。「病気を苦にして」「借金の返済に困って」といったふうにだ。また、自殺に関する本を開くと、必ず理由の一覧とそれぞれが何パーセントを占めるかを示した表が載っていて、それを前提に話が進められたりする。
 そういうものを目にするたびに、「そうかもしれない、しかし、そうではないかもしれない」とつぶやく。そして、「これを書いている人は、この『理由』を信じているのだろうか」と疑問に思う。そんな統計を信頼している論考は、どうしても本気で読む気になれない。
 しかし、フランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858年生―1917年没)が1897年に発表した『自殺論』は違う。彼は、そんな「自殺の理由」を決して真に受けたりはしない。

自殺者の先行与件のなかに、一般に絶望をもたらすとおもわれるなんらかの事実をいったん発見したと信ずると、人はそれ以上の詮索は不要だと決めこんでしまう。そして、当人は最近金銭上の損害をこうむったとか、家庭のもめごとに悩んでいたとか、いくらかの飲酒癖があったとかいうような噂にもとづいて、自殺の原因を、その飲酒癖や家庭の悩みや経済的打撃などに帰してしまうのである。このような疑わしい情報を自殺の説明の根拠とすることはできないだろう。(宮島喬訳)

 自殺の動機は、傍観者がいくら考えてもわからない。それどころか、当事者でさえ見誤っている可能性が高いとデュルケームは言う。

自殺する本人は、生からの訣別の行為をみずからに納得させるために、それをもっとも身近な周囲の事情のせいにする。(宮島喬訳)

原因は社会状態

 デュルケームは、傍観者の見立ても当事者の言葉も信じない。では、彼は自殺の原因をどこに求めるのか。
 社会だ。自殺の基本的な原因は「社会の状態」にあるというのが、彼の主張だ。人に自殺を促すような社会の状態があって、その状態の度が強まれば自殺者は増え、その度が弱まれば自殺者は減る。だから、自殺者ひとりひとりの個別の理由は重視する必要はない。自殺するような状態になれば、どんな理由ででも、ひとは自殺するのだから。

直接に自殺を思いたたせる、決定的条件のようにみえる私生活上の出来事はどうかといえば、それらは、じつは偶然的な原因にすぎない。個人が環境の与えるごく軽微な打撃にも負けてしまうとすれば、それは、社会の状態が個人を自殺のまったく恰好の餌食に仕立てあげているからにほかならない。(宮島喬訳)

 このように社会を極度に重視するデュルケームの自殺論に対しては、「個人無視のアプローチだ」等の批判がある。しかし、ぼくはそうは思わない。そもそも「病気」「貧窮」などの個人的事情に原因を求めれば、個人を重視していることになるのだろうか。

生きること自体

 自殺者に対する非難を、ときどき耳にする。
 「病気を苦にして自殺した」と見なされると、「重い病にもめげず、敢然と立ち向かっている人がいるのに、アイツは逃げた」などと言う。
 また、「経済的に苦しいから自殺した」と見なされると、「どん底から再起する人もいるのに、勇気がない」などと言う。

 そうなのだろうか。彼らは、病気や貧困に立ち向かうことなく逃げ出した、卑怯者、臆病者なのだろうか。
 きっと、そういう人もいるのだろう。だが、ぼくには、なかなか信じられない。
 納得できないのだ。
 いったい人間は、そんな個々の原因で自殺できるものだろうか。

 人間は動物だ。そうである以上、自己保存の働き、生きようとする衝動が何よりも強いはずだ。どんな状況になっても、まず生きることこそ最優先課題だろう。どんな困難、どれほどの障害が目の前にあったとしても、「だから死のう」などと思うはずがない。生命に比べれば「小さい」としかいいようのないトラブルのために、生命という最大級の価値を捨ててしまうなんて本末転倒だ。
 「生きること自体の否定」以外に、どうして生を放棄できるだろう。
 もちろん、具体的、現実的な何かは起こっているだろう。自殺の、最後のきっかけはあるに違いない。しかし、それはあくまできっかけに過ぎず、それをきっかけとして、「やっぱり、世界は肯定できない。生は苦痛なだけだ」とあらためて深く生を否定するからこそ、この世界、この生を消滅させようとするのではないのか。

 「生そのものの否定」による自殺者(ほとんどの自殺者はそういう人ではないかと、ぼくは漠然と想像する)の場合、彼らに対して「病気から逃げた」「困窮から立ち上がる根性がない」等と非難するのは的はずれであろう。
 またその場合、自殺防止のために個々の具体的な問題を解決することはもちろん必要だが、それは、いわば対症療法に過ぎないことになるだろう。自殺の根本的な解決は、世界苦、生の苦しみ自体の解決しかないのだから。

 今書いたことが正しいかどうかは、わからない。もしかしたらまるで見当違いかもしれないが、十代半ばごろから、ぼくはずっとそう思っていたのだった。

個々人の心の中

 デュルケームは、確かに、個々人の最終的なきっかけを無視している。しかし、それは個人無視ではない。むしろぼくには、普通によくある議論以上に自殺者ひとりひとりを重視しているように見える。
 なぜならデュルケームは、最終的なきっかけの前に、「まず、自分の生そのものを否定する状況がある、彼はその状況を生きていた、それゆえに自殺した」と言っているのだから。ぼくにはデュルケームが、死へ向かわざるをえない個人の心の様相を一生懸命に見つめているように思える。

 むしろ個人的な事情を知っただけで「自殺の理由」がわかったつもりになって、自殺者に向かって「苦しみから逃げた」「卑怯」「臆病者」などと非難の言葉を投げつける人こそ、人間ひとりひとりの、そこに至るまでの心の流れを見ようとしない、個人無視の態度をとっている。そう批判されるべきだ。

 デュルケームは二十代の後半に、自殺によって親友を失っている。学生時代の、つまり人間形成の時期をともに過ごした仲間だ。価値観も性格もわかっていただろう。自殺の理由も、誰かから聞かされたはずだ。しかし彼は、親友の自殺の理由と言われているものに納得できなかったに違いない。そういう経験があったからこそ、彼は自殺の理由について、公式発表も報道も本人の遺書さえも信じないのだろう。ぼくは勝手にそう思っている。

自殺の四タイプ

 社会の状態によって人々が「まず、生を否定しがち」になっている、そのうえで自殺が起こる。そうデュルケームは考える。だから、デュルケームが自殺を分類する際、その基準となるのは「自殺を引き起こす社会の状態の違い」である。

(1)個人と社会との結びつきが「弱い」から起こる →自己本位的自殺

(2)個人と社会との結びつきが「強い」から起こる →集団本位的自殺

(3)社会が個人の欲望を「抑制しない」から起こる →アノミー的自殺

(4)社会が個人の欲望を「抑え込む」から起こる  →宿命的自殺

 (2)は、「個人と社会との結びつきが強い」から自分が所属する集団のために死ぬ、というものだ。殉死や殉教などのことだから、ぼくらが普通に持っている「自殺」のイメージとは異なる。近代社会では少ないから、デュルケームはあまり積極的に取り上げない。
 (4)の「社会が個人の欲望を抑え込むから起こる自殺」は、過度に欲望を制限されたために起こる。「奴隷の自殺」などだが、これも近代では少ないので、デュルケームはやはりほとんど語らない。
 われわれに関わりがあり注目すべきなのは、(1)「自己本位的自殺」と(3)「アノミー的自殺」のふたつだという。

誰もいない劇場

 「自己本位」とは、社会の結束が緩くなって、個人が「所属する集団を気にかけず、自分のことばかりを重視している」状態である。

個人の属している集団が弱まれば弱まるほど、個人はそれに依存しなくなり、したがってますます自己自身のみに依拠し、私的関心にもとづく行為準則以外の準則を認めなくなる。(宮島喬訳)

 自分が属する集団のために貢献しようとは思わない。自分の個人的関心事以外は、すべて厄介事として軽視・排除する。「私的な快」だけが価値基準となる。すると、どうなるのだろう。
 人間の思考や行動は、もともとその動機、目的を社会の中に持っているものだ、とデュルケームは言う。ぼくらは社会の中で人々とともに、社会のためになる行動をするように、またそういうことに価値を感じるようにプログラミングされているのだ。
 だから、あまりにも自分にこだわって集団を無視するのは、人間本来の在り方からすると不自然なことだ。自分の思考や行動の目的が失われてしまい、何を考え、何をやっても価値を感じられず、虚しくなる。
 いわば、観客がひとりもいない劇場で舞台に立つようなもの。主役は自分だ。脚本も自分、演出も自分だ。ここではすべて自分の思い通りのことができる。しかし、自分だけで何を演じようと、どれほど巧みなパフォーマンスを誇ろうとも無意味だ。誰ひとり喜びもせず、評価もしてくれないのだから。
 やがて、「ぼくも、いいかげん舞台を降りてもいいのではないか、どうせ誰も見ていないのだから」と思い始めるだろう。

社会的人間はかならず社会の存在を前提とする。かれが表現し、役だとうとする社会を。ところが、社会の統合が弱まり、われわれの周囲やわれわれの上に、もはや生き生きとした活動的根拠をすっかり失ってしまう。(宮島喬訳)

 こうして「確実に把握することのできる目標をなにひとつみとめることができず、自己を存在理由のない無用の者と感じて生を放棄する」に至る。これが「自己本位的自殺」だ。近代社会の自殺は、このタイプが基本であるとデュルケームは言う。

限度のない欲望

 「自己本位的自殺」は、意気消沈し、不活発になって死に至る。
 それとは反対に、社会性があって非常に活発なのに死に至るのが「アノミー的自殺」だ。「アノミー」とは何か?
 「分相応」という言葉がある。あれも欲しい、これもやりたい、などと望むものではない、ひとそれぞれにあった欲求や願望がある、ということだ。しかし、そんな言葉は「身分」といっしょに捨て去ったのが近代であり、資本主義である。ここでは、ぼくらの欲望は思いきり解放されている。何をどれだけ欲してもかまわない。それどころか、持っている欲が大きければ大きいほど、賞賛されたりする。

この欲望の解放は、産業の発展と市場のほとんどとどまることを知らない拡大によって、いっそう拍車をかけられた。〔中略〕いまやほとんど全世界の顧客を相手にすることも期待しうるときになっては、このかぎりなくひらかれている前途をまえに、どうして情念はかつてのような制限をあまんじて受けいれることができよう。(宮島喬訳)

 こうして個人の欲望を抑え込む規制が失われた状態のことを「アノミー」と呼ぶ。われわれの欲望は制限されていない。どんなものでも、どこまで欲してもよい。そうなると、どこまでいっても「これで十分、これで満足」とはならないから、何を手に入れても充たされなくなる。もっと、さらに、どこまでも、限りなく求め続ける。誰もがシャカリキになって、ひたすら前へ前へと進んでいく。

こうした傾向はいまやあまりにも慢性化しているので、社会もそれに慣れてしまい、むしろ常態とみなす習わしになっている。(宮島喬訳)

 馬に乗っている人が棒を手にしている。棒の先からヒモが垂れていて、その先にニンジンが縛ってある。自分が乗っている馬の目の前に、ニンジンをぶら下げているのだ。目の前のニンジンにかじりつこうと馬は前進するが、背中に乗っている人もいっしょに前へ移動するから、当然、馬はどこまで歩いてもニンジンを食べることができない……。
 この馬のようなものなのだ、アノミー状態を生きる人間は。つまり、われわれは。

アノミーの苦痛

 「何でも欲していい、どこまでも追求してよい」というのは、抑えつけるものがなく、前向きで良いことのようにも思える。デュルケームは、その何が悪いというのだろう。欲望を制限しないで、どこまでも追求し続けると、人間はどうなるのか詳しくみよう。

(1)幻滅と苛立ち

 何を手に入れても、「こんなものでは満足できない、もっともっとだ」と思う。目標を達成しても、そのとたんにそれは本当の目標ではなかったと知る。本当の目標は、もっと先にある。どこまでいっても満たされない。だんだん苛立ってくる。その苛立ちは、決しておさまることがない。

(2)挫折と怒り

 地位をなくすなどして欲望を満たせなくなると、自分は没落したと感じる。そして、激しい怒りにとらわれる。

当然その怒りは、真実にせよ思いちがいにせよ、かれが自分の没落の原因だとおもっているものにたいして向けられる。かりにその災難の責任が自分自身にあるとみとめれば、かれはみずからを恨むであろう。さもなければ、他人に恨みをいだくことになろう。前者のばあいには、自殺しか起こりえまい。(宮島喬訳)

(3)疲労と虚しさ

 目指す目的が遠すぎると、いくら進んでも「自分は前進している」と感じられない。そのため、やがて疲れ果て、虚しさを感じる。

そのような熱狂がすべて醒めてしまうと、人はその狂奔がいかに不毛なものであったかに気づき、新奇な感覚をいくら積み重ねてみたところで、それが幸福の確固たる元手――それによって人は試練の日々にも耐えることができる――とはなりえないことをさとる。(宮島喬訳)

解決策は「連帯」

 「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」は、どうすれば防げるのだろうか。デュルケームの答えは、「社会との結びつき」「連帯」である。

時間的に個人に先んじて存在し、個人よりも永続し、あらゆる面で個人をこえているような集合的存在に、個人はいっそう連帯を感じなければならない。このような条件のもとではじめて、個人は、自分自身のなかにみずからの行為の唯一の目的をもとめることをやめるであろうし、自分がさらに上位の目的の手段であることを理解し、自分がなにものかに役だっていることをさとるにちがいない。そうすれば、生活は、自然な目的と方向を見いだすとおもわれるので、かれの目にとってふたたび意味をおびてあらわれてこよう。(宮島喬訳)

 人々が尊敬し、自発的に従いたくなるような「権威」のある集合的存在が必要だ。それがあれば、欲望の制限もできる、つまりアノミー状態も改善できると言う。そして、そのような集合的存在としてデュルケームが挙げるのは「同業組合」である。

 正直に言えば、初めて『自殺論』を読んだ二十歳の頃は、「同業組合」と言われてもピンと来なかった。「連帯」で自殺が防げるとも思えなかった。この本の「実践的な結論」はつまらない、価値がないとさえ思った。

 しかし今は、同業組合はともかく、「連帯が自殺を防ぐ」という点については、少なくともある程度は正しいと思っている。二十代の中頃にひとつの経験をして、それは後になって考えると、デュルケームのその主張の正しさを証明しているように思われたからだ。
 極めて個人的な、それゆえ他人にはどうでもいい経験だけれど、たとえ想像上でしかなくても「連帯が自殺を防ぐ」という一例のようにも思えるので、最後に記しておこう。

ある夜の経験

 二十代半ばの、ある夜のこと。
 部屋の中で、ひとり考えていた。
 ぼくは、もう明日の朝は迎えられないだろう。
 何度も考えたことだけれど、本当にもう終わりにするときだ。

 自分がそう決めつつあることを自覚すると、それまで感情の奔流に押し流されていたというのに、急にその流れが止まり、波が静まった。圧倒的な力を感じていたその極致で、いっさいの力が消えた。
 何だか自分が、この身体が、とても不自然に感じられる。
 あれ、どうして、ぼくはここにいるのだろう。
 わからない。
 リアリティがまるでない。
 あるいは、そのリアリティが欠落していることが、ものすごくリアルに感じられる。
 時間が止まって、その止まっている中で、ぼくひとりだけ顔を上げて室内を見回している。
 そうして、いよいよ、今、ぼくはそのときを迎えたのだと思った。

 あまりにも冷静になったので、これは本当に実行してしまうのだろう。
 他人ごとのような変な言い方になってしまうが、実際、そんな風に感じていた。
 激情でもなく、覚悟でもない。
 それだけにいっそう現実的に思われたのだった。

名前も知らない仲間たち

 あたりまえかもしれないが、それでもまだ、ぼくは心の奥底で、死にたくはなかったのだろう。
 意識が何とか命綱をたぐり寄せようとしていた。
 そして、ついにこんな風に考え始めた。

 ぼくは、ありきたりの人間だ。
 ぼくと同じ資質の人、同じ条件を生きている人は、世の中にたくさんいるはずだ。
 もしぼくがここで死ねば、それはぼくと同類の人間を同時に否定することになるだろう。
 ぼくと同じ人間、いわば仲間に向かって、きみにも生きている資格なんてないよ、と決めつけてしまうのだ。
 それは、仲間に向かって死刑宣告をするようなものではないか。

 さらに考えた。
 もしも、今夜を耐えて明日の朝を迎えることになったなら、それは死刑宣告とは正反対であって、仲間に向かってエールを送ることになるだろう。こんなに駄目なぼくでさえ耐えたのだから、きみなら絶対だいじょうぶ、いっしょにがんばろう、と。

 決して顔を合わせることのない、名前も知らない、どこにいるのかも知らない仲間たちへエールを送る。
 テレパシーとは言わないけれど、それは必ずこの夜を越えて、かすかにせよ仲間たちへ届くはずだ。
 ぼくが明日まで生き延びるってことは、そういうことなんだ。

 まともなおとなが聞いたら、何の説得力もない、馬鹿げた考えだと思うだろう。そのとおりだ。
 しかし、もしぼくと同じ種類の馬鹿で、できそこなった人がいるなら、そして、もしそんな夜になってしまったら、考えてみてほしい。

 きみが死ねば、それは、ぼくらみんなに向かって「死ね」と言うのと同じ。
 きみが明日まで生き延びれば、それはぼくらみんなに「がんばれ」とエールを送ることになる。

 きみがそんな風にがんばってエールを送ってくれたら、ぼくは必ず受けとめる。そして、きみに応える。
 励ましてくれて、ありがとう。ありがとう、生きていてくれて。

 きみも聞きとってくれるだろうか。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
エミール・デュルケーム『自殺論』宮島喬訳、中公文庫、1985年

※「自殺とされているけれども、実態は他殺であるケース」等のことは、この文章の執筆時(2010年6月)には考えていませんでした。

 

 

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