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『エピクロス』を読む

筆者:岡 敦
題名:『エピクロス』を読む(生きるための古典 7)
初出:「日経ビジネスオンライン」2010年4月13日


ぼくは外出に手間がかかる

 外出するとき、ぼくは、ひどく手間と時間がかかる。

 ガスの火は消えているか。蛇口から水が出続けていないか。
 そんな「ありえない」ことばかりが気になって、玄関のドアを三回も四回も出入りする。
 ガスの元栓は……閉まっている、やはり大丈夫だ。
 しかし、元栓から視線をはずした瞬間、再び、不安に襲われる。「自分の手がきちんと栓を閉めている映像」が鮮明に頭に浮かぶなら安心だ。そうできないときは、自分がたった今見たことなのに、どうしても信じられない。
 元栓を閉めている印象を強めようと、いったん栓を開けて、また閉め直したりもする。
 すると何ということだろう、「改めて閉めた」という事実よりも「ああ、今まで閉まっていた栓を、ぼくは今、開けてしまった」という悔いのほうが強く働いて、いっそうひどい不安にかられるのだ。

 狭い室内のことだ。気になることがどれほどあっても、やがて確認作業は終わる。
 だが、いったん馬鹿げた方向へ走りだしたぼくの頭は止まらない。むしろ加速する。玄関に突っ立ったまま、「気にすべきなのに、気にし忘れている確認事項はないか」と全力で考えている。
 ほんとうにぼくは阿呆だ。「心配し忘れていることはないか」とむりやり心配の種を探しているなんて。これでは、いつまでたっても安心できるわけがない。

 もちろん「外出時のチェックポイント一覧表」も作ってみた。それでも事態は変わらない。表の項目をすべてチェックしても、玄関から一歩出た瞬間に「ほんとうに表をちゃんと見たのか」「見落としはないか」と不安になり、さらに「そもそも表に書き忘れたチェックポイントがあるのではないか」と疑念で頭をいっぱいにするだけだ。

 まともな理由のない心配だから、歩いて駅にたどり着くころには、たいてい吹っ切れている。しかし調子が悪いときは(調子がいいときと悪いときがあるのだ)、電車に乗っていくつ駅を過ぎても不安は収まらない。ついには降車し、ホーム反対側の電車に乗って家まで戻ってしまう。
 そして「ぼくは馬鹿だ、もう一生、外出できないのではないか」と泣きたいほどの焦りを覚えながら、部屋の中を行ったり来たりして、100%問題ないと最初からわかっている元栓やスイッチを調べ続けるのである。

偶然の再会

 今から数十年前、ぼくがまだ二十代のある日、図書館で一冊の哲学書を手に取った。初めて見る本ではない。おそらく中学生のころに読んでいる。しかし、いくつかのつまらない印象しか残っていなかった。
 このとき手に取ったのは「たまたま」だ。そして、「たまたま」開いたページには、なぜか、ぼくの馬鹿げた内面が記されていた。

霊魂の最大の動揺は、〔……〕或る不合理な勝手な妄想をいだくことによって、そのような恐ろしいことを予期し懸念するにいたるところに生じることもある。(出隆・岩崎充胤訳)

 まるで、道ばたの占い師に心の奥底を言い当てられたような気がして、ぼくは驚きあわてた。すぐにその本を貸し出しカウンターへ持っていき、借りる手続きをした。そしてじっくり読み直した。
 中学生の印象とは異なって、今度は、とてもおもしろかった。それは「心の中の不安や動揺をなくすこと」を目的とした哲学だったのだ。書いたのは、紀元前341年にギリシアで生まれたエピクロスだ。

快楽主義者

 エピクロスと言えば「快楽主義者」として知られている。たしかに彼は「生きることはそれ自体よいことだ」と言い、「生の目的は快だ」と公言していたのだから快楽主義者と呼ぶのも間違いではない。
 しかし、エピクロスを「ひたすら快楽を追求する遊び人」のように想像するなら、それは違う。

快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)ことにほかならない。(出隆・岩崎充胤訳)

 「みんな、すぐ誤解するんだよ」と困り顔のエピクロスが目に浮かぶ、「私が言う快とは『苦がないこと』、つまり、いつも心が『平静』で、身体が『健康』なことなのにね」。

粗食の勧め

 それでは、たとえば「毎日おいしいものをたくさん食べる」というのはどうだろう。それは喜びをもたらすばかりで心を乱すことはないだろうから、エピクロスが求める「快」なのでは?
 「ほらね、やっぱり、わかっていない」エピクロスは笑いながら否定するだろう、「それは快ではない。私はみなさんに、むしろ『粗食』をお勧めしているぐらいだよ」と。

ぜいたくでない簡素な食事に慣れることは、健康を十全なものとするゆえんでもあり、また、生活上果たさねばならない用務にたいして人間をためらわずに立ち向かわせ、われわれがたまにぜいたくな食事に近づく場合に、これを楽しむのにより適した状態にわれわれを置き、また、運にたいして恐怖しないようにするゆえんである。(出隆・岩崎充胤訳)

 エピクロスは「粗食には四つのメリットがある」と言っている。

○粗食のほうが、健康になる。 
○美食のために時間や労力を使わない分、仕事ができる。 
○たまに食べるごちそうは、よりいっそうおいしくなる。 
○「運悪く質素な暮らしになる」ことを心配しなくなる。 

 粗食の勧めを見ると、エピクロスが求めているのは、目先の小さな快ではなく、持続的で大きな快であることがわかる。未来の大きな快のためであれば、当面の小さな快・不快など無視すべきだと彼は言う。

長時間にわたって苦しみを耐え忍ぶことによって、より大きな快がわれわれに結果するときには、多くの種類の苦しみも、快よりむしろまさっている、と考えるのである。(出隆・岩崎充胤訳)

 こうまで言われると、むしろ「禁欲主義」と呼びたくなるが、これがエピクロスの「快」なのである。

死は無関係

 快を求める、つまり苦しみや恐怖をなくそうとする。そんなエピクロスにとって、最大の敵は「死」だ。
 実際、「死」に対しては、たいていの人は平静でいられない。考えるだけで動揺し、目の前に迫れば苦しみに襲われる。
 エピクロスは、それにどう対処するのだろう。
 「死なんて関係ない」
 彼は、無雑作に言い放つ。

死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 確かに生きている人には、死なんて関係ない。死んだ人には、自分が死んでいることがわからないのだから、やはり関係ない。結局、死はぼくらが生きていようが死んでいようが関係ない……。
 このエピクロスの「死の克服法」の根拠は、彼の原子論にある。エピクロスは、すべては原子の集まりだと考える。霊魂の存在を認めはするものの、それさえも原子によって構成されているのだから、分散すれば消えてなくなると言う。そして、霊魂が分散して消えた死者は、死を感じることはないのである。

放り投げる

 初めて読んだ中学生のときは、この「死の克服法」が納得できずにいた。かすかにそんな記憶がある。単なる屁理屈かトンチ話のようにも聞こえて、おとなに口先でごまかされているような気がした。「こんな言葉で、死の不安がなくなるのかなあ」と冷ややかに読んでいたように思う。
 だが、二十代になって読み直したときには、ぼくは違う受けとめ方をしていた。
 死んだらどうなるのか。
 誰も経験的には、確かなことは言えない。
 そんな不確かなことに頭を悩まし、想像しておびえ、恐怖と不安で生を灰色にするなんてもったいない。
 いっそ「ぼくらに関係ないよ」と乱暴に放り投げて、恐怖も不安も忘れてしまったほうが得だ。
 エピクロスは、自分の「死の克服法」が正しいと主張しているのではなく、「そんなことは放っておけ」「無駄にネガティブなことを考えるな」と諭しているのではないか。

不安の克服

 実際(死の問題も含めて)逃げようのない緊急の問題にぶつかっているときには、このエピクロスが口にするような一見デタラメな言葉、馬鹿馬鹿しい言葉、無茶な言葉のほうが、かえって効果的に「救い」として働くことがある(それは、その問題に切実さを感じていない傍観者、たとえば死を切実に考えていなかった中学生のぼくには、単なる「屁理屈」「トンチ話」「乱暴な言葉」としか思えないだろうけれど)。
 エピクロスの「死の克服法」、この無雑作に放り投げたような言葉、「トンチ話」モドキは、そんな種類の言葉ではないのか。

 ぼくは外出時に不安にかられると書いた。そして、「調子の良いときと悪いときがある」とも。「最も調子が悪かった」のは、二十代のころ、上に書いた「エピクロス再読」の少し前、旅行に出かけたときだ。

 家を出て新宿駅に着き、ぼくは特急列車に乗り換えた。列車が動き出し、ビル街から住宅地へ、やがて緑が増えて、東京を離れつつあったとき、ぼくの頭はまたも無意味な室内安全点検を始めてしまった。
 びゅんびゅんと後方へ去っていく景色に顔を向けながら、もうぼくの眼は何も見ていない。頭の中が、ガスの元栓のことでいっぱいだからだ。ガス漏れ、火事、爆発……そんな大惨事の予感に胸の中は大揺れに揺れる。もちろん問題は何もないとわかっている。わかっているが、不安は収まらない。
 これは特急列車だ、あと三十分間は停車しないで走り続けるだろう。
 それで、次の駅に停車したらどうする?
 ぼくは、どうするつもりだ?
 旅行はやめて、列車を降り、東京に戻るのか?
 そして家の中を見回して、ああ、やっぱり何も問題はなかったと、あたりまえのことを確認するのか?
 無意味だ。
 馬鹿げている。
 あまりにも馬鹿げてはいるが、そうするしかないだろう。
 これほど動揺しながら、旅行など続けられるものではないのだから。

 家に戻ろう。
 ほとんどそう決めかけると、今度は、家でガスの元栓を確認している自分の姿が想像されて、別の種類の恐れを感じ始めた。
 もし今、家に戻ったら、と考えた。ぼくはこれから何度でも同じことを繰り返すだろう。特急列車に乗っては、途中下車して家に戻る。外泊の予定はすべてキャンセルする。二度と長時間の外出はできないだろう。それは困る。ひどい事態だ。今日は安心できても、この先の人生を失ってしまうではないか。しかし、この列車を降りて家に帰れば、自分がそうなってしまうことは、ほぼ確実のように思われた。
 さあ、列車から降りるのか、降りないのか?
 激しく迷いながら、時間は5分、10分と過ぎ、停車駅が近づいてくる。
 不安と葛藤の高まりで、ぼくは車内で叫び声をあげそうになった。

 そして、決めた。
 この列車を降りて家に戻ったら、ぼくはおしまいだ。
 そんなことをするぼくは、二十代にして、もう廃人だ。
 たとえ火事やガス爆発を防いでも、人生は終わる。
 それは駄目だ!
 廃人になってしまうぐらいなら、極悪人として生きたほうがマシ。
 ガスの元栓なんか、開けっ放しでいい。
 今、ガス台の上で炎がうなりをあげていたとしても、知ったことか。
 建物一棟、丸焼けになれ。
 100人死んでも、かまわない!
 自分勝手の極み、むちゃくちゃな考えだ。しかし、ぼくがとらわれているのは、もともと根拠のない心配、馬鹿げた不安だ。まともに理屈を考えたって、吹っ切れるものではなかった。
 実際、心の中でこんな「暴言」を吐くことで、やっと下車を思いとどまり、旅行中は、もう何も気にすることなく過ごせるようになったのだった。「馬鹿馬鹿しい言葉のほうが、かえって『救い』になることがある」と書いたが、それは、たとえば、このようなことである。

生きるための哲学

 エピクロスは自然科学者でもある。彼は神話を「作り話」と呼ぶ。神々を認めはするが、その神々は人間に都合のいいことも悪いこともしない。つまり、「いてもいなくても同じ」だと見なす。そうして、客観的な自然法則を探る。
 だが、その自然研究にしても目的は快のため、心の平静のためである。

天界・気象界の事象についての認識から達せられる目的は、〔……〕その他の事柄についての認識の場合と同じように、心境の平静と確乎たる自信にほかならない、と考うべきである。(出隆・岩崎充胤訳)

 そうであるからエピクロスは、自分の科学的な姿勢に固執することもない。そんなもの「心の平静」に役立たないと見れば、ただちに捨ててしまう。たとえば、「すべてが自然法則によって決定されている」かのように語る学者に対して、エピクロスは反発する。そして、むしろ神話を信じる人々を擁護する。

じつのところ、自然学者たちの主張する運命の奴隷となるくらいなら、神々についての作り話(神話)にしたがう方が、まだしもましであろう。なぜなら、神話の方は、神々を敬うことによって、運命を免れたいという願いが聞き届けられる希望をいだかせはするが、自然学者たちの主張する運命の方は、何らの願いもかなわない必然性をもっているからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 エピクロスは、客観的・科学的に現実を見極めたいと思う。だから自然を研究する。しかし、それは単なる知的好奇心からではない。より幸福に生きるためである。
 だから彼は「より幸福に生きるために」、客観的現実をしっかり直視したうえで、それがどれほど苛酷であっても絶望することを拒否し、なおも希望を語ろうとするのだ。彼は次のような言葉さえ口にする。

必然にしたがって生きることには、何の必然もない。(出隆・岩崎充胤訳)

 ぼくは、エピクロスのこんなところが大好きだ。
 現実を見つめつつ、硬直的に正しい言葉を繰り返すのではなく、人々がよりよく生きられるようにと、柔軟に話しかける。彼は言葉を、人の心を縛るためにではなく、人の心を解放するために使っている。
 こういう言葉に出会うと、「ああ、彼は『生きるために』哲学しているんだ!」と切実に思う。

老いの喜び

 「人生は棺を覆うまでわからない」などと言う。それはつまり、ひとりの人間の人生は、最終形態で善し悪しが判断できる、ということだ。あるいは、人生全体を完結したひとつの物語のように見通すことで、人生は評価できる、ということだ。
 エピクロスは違う。彼は、そう考えない。

「長い人生の終りを見よ」というは、過去の善きことどもにたいする忘恩の言葉である。(出隆・岩崎充胤訳)

 人生の本質は、その最終形態ではない。最期の姿が「結論」ではない。また、人生全体のストーリーが価値でもない。
 では、人生とは何だ。

 ぼくらには、常に「今」を一生懸命に生きるしかないではないか。
 日々、どうにか生き延びるだけなのだから、人生全体が出来の良いストーリーを形作るはずがない。素敵なエンディングを前もって用意しておく余裕なんて、あるわけがない。
 生きている「今」をただ積み重ねて、それが結果として自分の人生となる、そんなふうに生きるだけではないか。
 だから「今」を全力で輝かせるしかない。短い時間であれ、不安や苦しみを取り除いて、できるだけ「今」を充実させよう。
 そして、素晴らしい「今」を持ち得たのなら、それはいつまでも変わることなく胸の奥にとどまり、回想によって何度でもよみがえるだろう。そのとき、回想している現時点、この新しい「今」も、美しく輝くだろう。

 こうして回想によって人生が肯定されるのだとしたら、回想する「善いこと」が多いほど、幸福で良いことになる。つまり、長く生きれば幸福になりやすいのだ。だからエピクロスは、「老い」を嫌いもせず、恐れもしない。

若者がではなくて、美しく生を送ってきた老人こそが、祝福されていると考うべきである。というのは、男盛りの若者は、考えが定まらず、運によって、激しく弄ばれるが、老人は、かつては期待することすらむつかしかった善いことどもを、損なわれることなく安全に感謝の念によって包み、老齢を、あたかも泊まり場として、そこに憩うているからである。(出隆・岩崎充胤訳)

 この回想がもたらす「善いこと」を強調するのが、エピクロスのひとつの特徴である。

ぼくの訃報

 彼自身が死の間際に書いた手紙にも、こう記されていた。

生涯のこの祝福された日に、そして同時にその終りとなる日に、わたしは君にこの手紙を書く。尿道や腹の病はやはり重くて、激しさの度を減じないが、それにもかかわらず、君とこれまでかわした対話の思い出で、霊魂の喜びに満ちている。(出隆・岩崎充胤訳)

 人は誰でも老いる。そして死ぬ。
 どれほど長くても、あと数十年。それだけ経てばぼくは死ぬ。
 そのとき、ぼくのそばに、誰かいるだろうか。
 どこかに、ぼくの訃報を受け取る人がいるだろうか。
 その人は、ぼくの人生をどんなふうに想うのだろう。

 外出に手間取る人間だ。万事がその調子の生活だから、「ひどく能率が悪い、ムダな人生だったね」と言われるだろうか。「つまらないことに右往左往し続けて、何のために生まれてきたのやら」と言われるか。
 そのとおり、ほんとうのことだ、しかたがない。

 しかし、もし今この時代にエピクロスが生きていて、ぼくの訃報を受け取ってくれたなら、とむちゃくちゃな想像をする。彼はぼくの人生を、そんなふうには見ないだろう。
 人に誇れるものなどひとつもない、このぼくの人生にも、それでも運や人の助けによって素敵に彩られた、回想すべきことはある。ひとつだけではない、いくつもある。
 「それならば」とエピクロスは言ってくれる気がする、「キミは幸福だ、キミの人生は素晴らしかったのだよ」と。

 かつて生きた素晴らしい「今」は、決して失われない。
 回想によって、それは何度でもよみがえり、今現在を喜びで満たし、輝かせる。
 それは、誰もが持ち得る快であり、善であり、喜びであり、宝である。
 幸福である。
 人生の価値である。

 エピクロスは「老い」や「人生」を、こんなふうに、暖かく、喜ばしく、肯定してくれるのだ。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
エピクロス『エピクロス』出隆、岩崎充胤訳、岩波文庫、1959年

※この本にはシロテン(句点と読点の中間の記号)が使われていますが、引用の際はすべて句点に置き換えました。

 

 

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