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フロイト『精神分析入門』を読む

筆者:岡 敦
題名:フロイト『精神分析入門』を読む(生きるための古典 6)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年12月22日

 

ぼくは、なぜ、ここにこうしているのだろう

 気がつくと、ぼくはここに立っていた。

 ぼくがこのような仕事をして、こんなふうに生活しているなんて、若いころに一度でも想像しただろうか。ほんのわずかな予感でも脳裏をよぎることがあっただろうか。ない。まったくない。それが良いとか悪いとかではなく、ただ、いつのまにか想定外の人生を歩んでいる、このことが不思議でならない。

 どうして、こうなった……いつどこで想像していた道から外れたのだろう……。
 振り返ってみる。
 確かに、現実の力に押し切られて、意に反した選択をしたこともあった。誰かへの配慮で妥協したことももちろんある。しかし、たいていの場合、自分の考え自分の意志に従ってきたはずだ。それなのに、ぼくの人生はいつのまにか若い自分が抱いていた希望や心積もりから逸れていき、そしてぼくは、今、なぜか、ここにこうして立っているのである。

 人には心があり、心に従って生きていく。
 心が人生や生活のパイロットだ。
 ところがその心が、わかるようで、実は、ぼくにはよくわからない。
 心はとてつもなく広い。どこまで広がっているのか、見通すこともできないほど広い。
 また、心は暗い。どんなに目を見開いても、ほとんど何も見えないほど暗い。
 街灯も月明かりもなく、手元に灯るのは豆電球ひとつ。
 その光がおよぶわずかな範囲しか、ぼくには自分の心が見えていない。

 この果てしない闇の奥深く、強烈なエネルギーを持った何かが、のたうち回っている。姿は見えないけれど、そんな気配がする。足の裏に振動を感じる。予感と胸騒ぎがする。
 得体のしれないそいつに脅かされ、強いられ、追われ、そそのかされて、気がつくと、こんなふうに生きてしまっている……。

 『精神分析入門』を開くと、いつも、こんな想いが頭の中をぐるぐると巡るのだ。

やさしい手引き

 「精神分析」とは、人間の心を解き明かそうとするジークムント・フロイトの学説のことであり、また、それに基づいた心理療法のことでもある。『精神分析入門』は、精神分析の創唱者フロイトが著した、その入門書だ。

本書は、私が一九一五年から一九一六年にかけての二度の冬学期に、医師も非専門家も、男性も女性も加わった聴衆を前にして行った講義をそのまま再現させたものである。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 引用したのは序文の一節。書いてあるとおり、この本は講義の記録なので、文体は話し言葉、とても親しみやすい。しかも、素人に伝わりにくそうなことは繰り返し語ってくれる。
 初めてこの本を読んだのは中学生のときだった。年齢なりの浅い理解しかできなかったにせよ、ひと息で読み通してしまった。精神分析を一般向けに説明した本は多いけれど、「家元」が書いたこの本は、とりわけ、わかりやすくおもしろいのである。

悪い自分が顔を出す

 フロイトは開講にあたり、「人間には意識できない心の働きがある、という事実」を認めるよう聴衆に求める。

 彼は言う。心と意識を区別して考えよう。「自分の心」といっても、自分に見えている部分(=意識)は、そのうちのほんの一部に過ぎない。そんな意識には、基本的に自分の心の全容などわかりはしないのだ、と。

精神分析の世間に好まれていない第一の主張は、心的過程はそれ自体としては無意識的であり、意識的過程は心的全活動のたんに個々の作用面であり、部分であるにすぎないということです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 フロイトのそんな言葉を目にすると、決まって小学生時代の嫌な思い出がよみがえる。
 ぼくは何年生だったろう。ある日、祖母に向かい、ひどく悪いことを言ってしまった(何を言ったかは覚えていない)。悪気はなかった。そんな言葉を口にするつもりはまったくなかった。冗談を言おうとして外したのでもなかった。「魔がさした」というのだろうか、その一瞬、なんだか自分が自分でなかったみたいだった。
 言った直後に、そばにいた母に強くたしなめられた。しかし、自分がその言葉を発したという実感もなく、「え? あれ? 今、変なことを言ったのは、ぼく?」と、とまどっていた。ほんの数秒前の出来事なのに、まるで何年も前のことを思い出そうとしているような不思議な気持ちだった。「自分の心は自分では把握できない」と実感した、これが最初の経験である。

 また、こんなこともあった。遠足で電車に乗っていた。座る席がなく、ぼくは友人たちと立っていた。そのとき、とても仲の良かった友人に向かってひどい言葉を発してしまった(この言葉も覚えていない)。やはり、言ったのが自分だとは信じられないまま、呆然として謝ることもできなかった。言った本人であるぼくが、自分の言葉に驚いていたのだ。

 祖母や友人にむかって、なぜ悪い言葉を発してしまったのだろう。自分でもまったくわからない。だから、反省のしようもない。
 ただ、少し時間が経つと、自分なりにわかってきたことがあった。この「ぼく」というのは、本当は、自分では想像もできないくらい嫌なやつ、ひどい男、悪い人間ではないのか。そんな、どんよりとした暗く重たい疑いを、自分に対して抱くようになったのだ。
 うっかり気を抜くと、その悪い自分が顔を出し、ぼくを動かして、とんでもない振る舞いをさせるだろう。油断してはいけない。自分自身に対して、ぼくは警戒心を持つようなった(もちろん、当時このように考えたわけではない。今になって振り返り整理するとこんなふうに言えそうな「嫌な感じ」を、自分に対して持ったのである)。

酸っぱいブドウ

 ぼくたちは、もう「無意識」という概念に馴染んでいる。しかし、フロイトの講義を聴いた20世紀初めの理性的な紳士淑女たちは、そうではない。彼らのほとんどは「自分の内面は、自分がいちばんよくわかっている」と言いたかったはずだ。自分は、なぜこういうことをするのか、その動機はきちんと自覚している、希望を口に出して言うこともできるし、今考えている内容を説明することもできる、と。
 ところがそんな反論、フロイトは、まったく受け付けるつもりはない。意識されない心は、人間の言動を左右するだけではない。それについて、耳ざわりのよい理由や目的をこしらえる。いわば心は嘘をつく。そして自分の心がつく嘘を、意識はすぐに真に受けてしまう。つまり、自分(意識)は自分の心にだまされる。だまされていることを認めないとしたら、それこそ、完全にだまされているしるしである。フロイトは、そんなふうに考えている。

 自分が自分をだます方法のひとつに、たとえば「合理化」がある。この言葉は『精神分析入門』には出てこない。後の精神分析家が用いた言葉だ。
 合理化は、普通の言葉の使い方では「理屈に合わないやり方を改め、合理的に改革すること」だったり、企業において「生産性を高めるためにリストラすること」だったりするだろう。しかし、精神分析用語としての「合理化」の意味は異なる。「嫌な現実に直面すると、それを受け入れやすくしようとして、勝手な理屈をつけること」だ。

 よく合理化の例に挙げられるのは、イソップ寓話集の「狐とブドウ」だ。ブドウを見つけた狐は、それを食べたいと思う。ところが、身長が足りなくて、ブドウまで届かない。何度背伸びしてもジャンプしても駄目。ついに断念せざるをえなくなった狐は、ブドウに背を向けて「ふん、どうせ、あのブドウは熟れていないよ」とつぶやく。

 あのブドウは酸っぱい、だから食べられなくて、むしろよかった……このような理屈を自分に向けて語ることによって、(食べられなくて悔しいという)現実を直視しないようにしている。これが「合理化」だ。

錯誤、夢、神経症

 フロイトは、しかし、心の中は嘘だらけの真っ暗闇だ、と言っているわけではない。
 真実は、何らかの形で現れる。意外なことに、ド忘れや言い間違いや夢などの日常の中のささいな出来事として。だから、それに注目すれば心の中の真実もわかってくるはずだという。つまり、自分の心の働きは、真っ正面からその正体を目撃することはできなくても、ちょうど夜行性の動物の行動を調査するみたいに、足跡や糞、残り香などから遡るようにして推測できるのである。
 ぼくらのふだんの生活の中でも、たとえば嘘をつきがちな人と話しているときは、その人の話し方を観察して、言いよどみや繰り返しやこだわりに注目すれば、話のどこに嘘があるのか見当がつくこともある。そして、なぜそこで嘘をつく必要があるのかが想像できれば、その人の心の中もうっすらと見えてくる。
 フロイトは、そのようなやり方で心の中を探ろうとする。『精神分析入門』の内容は三部に分かれていて、それぞれ、「錯誤行為(ド忘れや言い間違い等)」「夢」「神経症」を取り上げている。それらは、無意識の過程の変形された現れだ。それらを通して、直接見ることのできない無意識の働きをつかもうというのだ。
 『精神分析入門』で語られるそんな話には、まるで探偵シャーロック・ホームズが依頼人のちょっとした癖からその人の生活や経歴を言い当てる場面のような、マジックめいたおもしろさがある。

リビドーという「人形遣い」

みなさんは、ほかでもない心の自由という錯覚を内心にいだいておられ、それを放棄したくないと考えていらっしゃるのです。残念ながらこの点では、みなさんと私とでは考えが全く相反しているのです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 人は、自分には見えない、心の中の大きな力によって、踊らされている。それが本当なら、人間は自分の意志を持つ立派な主体のつもりでいて、実は操り人形に過ぎないことになる。では、この自分という人形を操る「人形遣い」は誰だ。私を振り回す巨大なエネルギーを持つ何かとは、いったい何ものだ。
 フロイトはそれを「リビドー」と呼ぶ。それは「無意識のうちに快を求める力」であり、いわば「私の真の主体」である。

便宜上リビドーという概念を導入させていただきましょう。欲動を発現させる力をリビドーと名づけます。リビドーは飢えとよく似ています。飢えの場合には摂食欲動ですが、リビドーの場合には性の欲動です。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 リビドーは心の中に潜んで姿を現さないまま、私を動かし振り回している。それは快を求める性的な力だという。

 「性的」と言うけれど、しかしリビドーを「性欲」や「性行為における快感を求めるもの」と理解しては間違いになる。フロイトは「心と意識」を区別するように、「性的と性器的」という言葉を区別する。リビドーはあくまでも「性器的」ではなく「性的」なエネルギーだ。それは個人の自覚的な性欲を超え、生殖行動に限定されない、圧倒的な力なのである。

利己主義ではなく

 「二十世紀の思想は、十九世紀生まれの三人のドイツ語話者によって作られた」と言われる。マルクス、ニーチェ、フロイトだ。彼らに共通するところは、「人間は自分の言動の意味(動機、根拠、目的)を自覚していない」という考え方だ。彼らによれば、人間は自覚できない何かによって操作される「対象」であって「主体」ではないのである。
 このような思想を語る著作、とくにフロイトの本に触れると、次のような考えに向かいがちだ。

 人は自分で言っているのとは違う別の動機を持っている。それを自覚することはできない。隠された真の動機は、汚くて利己的なものだ。仕事も人間関係も、たとえ善行に見えることでも、結局は自分ひとりの利益、自分ひとりの快のためだ。それが人間というもので、アイツもアイツもみな同じだ……。

 まるで自分ひとりが他人の心の内を見透かしているような口ぶりだ。こんな調子で話し始めると、自分だけが物事の裏を読み醜い真実を直視しているような、悲壮で優越的な陶酔感が込み上げてくる。たとえば中学生のぼくのような未熟な読者は、『精神分析入門』を読むと、すぐにこんな言い方をしたがるのである。

 

 しかし、本当だろうか。ぼくらはかくも徹底的に利己的なのだろうか。

 もちろん違う。人間とは、そんなにも自分の利益ばかりを優先する生き物であるとは、フロイトは考えていない。

 自分の経験に照らし合わせてみてもわかるだろう。自分の言動のどれをとっても確かに利己的に快を求めているような気はする。しかし、すべては自分ひとりの利益や快楽のためという考え方をしていては、本当に満足のいく強烈な喜びが得られるわけなどないのである。そのことも、経験的に知っているはずだ。本質的にリビドーは、そしてリビドーによって動かされる人間は、「快を求める存在」であるからこそ、「利己的にだけ快を求める存在」なのではない。

実に性愛こそは、個体を越えて個体を種属に結びつける生体の唯一の機能なのです。この機能を行使することは、個体の、性以外の営みとはちがって、必ずしもつねに個体に利益をもたらすとはかぎりません。むしろ異常に高度な快感をあたえる代わりにその生命をおびやかし、しばしばそれを失わせるような危険に個体をおとしいれることは、まぎれもない事実であります。〔中略〕そして結局は、自分自身だけを大切に考えて、自己の性愛を他の諸欲動と同じくおのれの満足を得るための手段と見る個体などは、〔中略〕いわば自分の死後にも残る世襲財産の仮の所有者のごときものにすぎないのです。(懸田克躬・高橋義孝訳)

 人間の行動や思考を、根源から形作っていくリビドー。ひたすら快を求めるリビドーであるが、その完全な発露、究極のエクスタシーは、実は、自分自身の快を求めることによってではなく、共同体のために自らの生命を投げ出すときに訪れる、……読もうと思えばそう読めなくもない一節さえ『精神分析入門』には見出されるのである。

年月が変える印象

 初めて『精神分析入門』を読んだ中学生のとき、ぼくは単純に、人間はみんな偽善者なんだな、とだけ思った。美しい行為や正義の発言も、その「裏」を読めば必ず利己的な動機が潜んでいる……と。「裏読み主義」とでも呼べばいいのか、そんな浅はかな理解しかできなかった。

 しかし時が経ち二十代になってから読み直すと、そのときにはまるで別なふうに読めた。中学時代に抱いた印象に反して、この本には「誰もが利己的に自分の快を追求する」といった単純な人間像は描かれていなかった。むしろ、人間の表向きの言動を真に受けてはいけないが、しかし、裏読みを真に受けてもいけないよ、と諭されているように思われた。
 実際、中学生のぼくのように、心の内のネガティブな面ばかりに目を向け指摘して、真実を明らかにしたつもりになって、それでいったい何が得られるだろう。再読までの十年の年月が、そう考え直すことができる程度の経験を与えてくれた、ということかもしれない。かつてこの本を「裏読みのバイブル」のように読んで得意がっていた自分が恥ずかしくなった。読解力のなさを恥じたのではない。自分の品性の下劣さが恥ずかしくてたまらなくなったのだ。

 自分であれ他人であれ、内面なんて簡単にはわからない。わかっているふうな口をきいてはいけない。二十代のぼくはそう思った。自分のためとか他人のためとか、そんなこともわからない。人の心は、どこまでも汚く、どこまでも美しい。表と裏だけでなく、裏の裏、裏の裏の裏もある。
 だから、そんなこと、もう、どうでもいいではないか。わかったふりも裏読みもやめにして、「ねえ、おたがい理解しあえない同士、それでも何とかいっしょにやっていこうよ」と、ぼくは真顔で言ってみたくなったのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
ジグムント・フロイト『精神分析入門』懸田克躬・高橋義孝訳、人文書院、1976年

 

 

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