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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む

筆者:岡 敦
題名:ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(生きるための古典 3)
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年7月7日

 

決定的な体験

 たとえば、ある晴れた夏の日の正午。
 窓越しに庭に目をやると、樹がゆっくり大きく音もたてずに揺れている。枝々が身にまとう無数の葉は、それぞれのリズムで表になり裏になりして受けた陽を小さな光の粒子に換え、あたりに撒き散らしている。
 また、たとえば、ある冬の雨の日の夕暮れ。
 窓ガラスを幾筋ものしずくが、あるものは速くあるものは遅く、尾を引いて流れ落ちていく。外の景色を少し歪めて、上から下へ、ふと止まり、ときには左右に蛇行しながら。
 日々繰り返され、飽きるほど目にした、ありきたりの光景だ。わざわざ書き留める価値もない。

 ところが、そんなあたりまえのはずの光景が、あるとき不意打ちのように決定的な体験をもたらすのだ。
 いや、そのとき何が起こったわけではない。
 昨日とどこが違うわけでもない。
 それなのに、ある瞬間、ハッと気がつく、「ああ、世界はこのようなのだ……!」
 世界がある、世界はこのようにあり、自分がいる。ぼくはここに、今、生きている。
 目に映っているのは、言葉にするのも馬鹿馬鹿しい、あたりまえの光景に違いないけれど、なぜか、それがおそろしく鮮やかに感じられ、胸に迫って来る。
 そして、自分が今ここにこうしていることが、誰かあるいは何かによって承認された、と知る。ただ知るのではない、理由もなしに確信する。
 視界が晴れ渡る。「よし」とか「美しい」とか、そんな言葉が口をついて出る(それは「きれい」とか「豪華」といった意味ではないけれど、やはり一種の美しい経験だ)。
 そのとき、目の前の「ありふれた」景色を見つめながら、ぼくたちは、生きることの意味や価値に関わる何か決定的に重要なことを知ったように思うのである。

あらわな現在の表象は、全く時間的な世界のつまらぬ瞬間的な像としても、陰に隠れている真の世界としても、同様に把握可能なのである。(奥雅博訳)――『論理哲学論考』刊行の6年前に書かれた覚え書き

 このような体験をすると、ぼくらはひとに話したいと思う。誰かに伝えたい、語り合いたい、言葉にして共有したいと願う。
 しかしすぐに、そんなことはできないことに気がつく。語ることなどできやしない。だって、いったい何をどう語る? そもそも語るべき特別なことなど、何ひとつ起きていないではないか。

夏休みの宿題

 あのリアルで肯定的な時間、本当に大事な体験は、言葉では言い表すことができない。このことを主題として書かれた哲学書が、『論理哲学論考』(1922年刊)だ。書いたのはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、1889年ウィーン生まれの哲学者である。

神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(野矢茂樹訳)

 もちろん『論理哲学論考』は、普通に読めば論理学の本であり、どのページを開いても、書かれているのはすべて言語と論理についての考察だ。ズラリと並んだ短文は、すべて「1」「1.1」「1.21」のように番号が振られている。「1.1」や「1.2」は「1」についての注、「1.21」は「1.2」ついての注であることを示している。
 こんなふうに隅から隅まで意識的に構成され、とことん明晰に書かれた文章を連ねて、彼は言うのだ、「言葉で言うことには限界がある」と。

 「言葉を使って言葉を分析している本が、言葉の限界を説くだなんて。そんな言葉の世界に閉じこもるような本は嫌だな」と、読む前にもう、狭い空間に閉じ込められるような息苦しさを覚える人もいるだろう。だが、これは「言葉に閉じこもる」本ではない。
 たとえば、夏休みになると、その初日から一生懸命に宿題に取り組む小学生がいる。朝から晩まで勉強漬けだが、その子は勉強が好きなのではない。反対だ。この小学生は、大好きなサッカーに打ち込みたいのだ。だからこそ、まず、邪魔な宿題をサッサと片づけてしまおうと考える。本当の関心事に邁進するため、二度と教科書を開かなくて済むように、まずは、つまらない課題に熱心に取り組んでいるのである。
 『論理哲学論考』が言語について考察するのは、これと同じ理由だ。ウィトゲンシュタインは、あの言語化できない決定的な体験に価値を置く。それを大事にしたい、真に価値あるその問題に全意識を集中したい。考えたい。語れるものなら、語りたい……。
 だからこそ、まず最初に、そもそも言葉というものは何を語っているのか、どこまで言い表せるのかをはっきりさせる必要がある。言葉の限界について明らかにしておこう。無駄な言葉の中に閉じ込められないように、言葉を徹底的に考察しなければいけない……『論理哲学論考』は、そんなふうに書かれた本なのである。

沈黙のすすめ

 ウィトゲンシュタインは言う。

本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。(野矢茂樹訳)

 ――本当に大切なことは、言葉では伝えられない
 ――それを無理に言おうとすると、矮小化されて受け取られてしまう
 ――一生懸命に語っても、どうせ誤解されるだけだよ
 ――ちゃんと伝わらないなら、いっそ黙っていよう
 これは誰もが思うことだ。虚しさを味わいながら、あるいは落胆して、ときに悔し涙を流しながら、ぼくらは胸の内でこんなことをつぶやく。
 ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』に記したことは、実は、あの決定的な体験を常に念頭に置きながら、このつぶやきを精密に述べることでしかない……。

示されるもの

 言葉の限界を問題とする『論理哲学論考』には、「語る」と「示す」という一対のキーワードがある。このふたつの語を対立的に用いて、「語れるもの」と「語れないもの」について語る。「語りえぬものを指し示す」「語れないものがあり、それは示される」などと言う。
 「語れないが、示される」とは、どのようなことだろう。
 たとえば、優れた絵画を見て猛烈に感動し、友人に言葉で伝えようとする。しかし、理解されない。業を煮やしたぼくは、とにかく見てくれ、と友人を展覧会場へ連れて行き、その絵の前に導く。実物を目の当たりにした友人は、たちまちぼくの感動を理解し納得するだろう。
 絵画がもたらす感動は、言葉が限定するどの部分のどの要素にあるのでもない。画面という、それら諸要素の関係全体にある。さらに、画面を囲む額縁との関係、架けられた壁面との関係、会場の雰囲気、そこにいる観客の様子、会場所在地の環境……そういった全体が「感動」に関わっている。「全体」が感動を生み出している。
 しかし、「全体」は語りようがない。これが「全体」だと思った瞬間にその外側が考えられて、それ(外)との関係が意識に上る。つまり、次々に大きな「全体」が現れてくる。入れ子状の空間の、内から外へと意識は際限なく拡張していく。だから、「全体」を認識することは、ついにできない。
 そんなふうに、感動の源は「全体」にあると思っていても、その「全体」は認識できないのだから、結局、口から発せられる言葉は「全体」から切り離された部分について語るばかりだ……。言葉では、絵画がもたらす感動を伝えられない、その理由の「ひとつ」は、ここにあるのだろう。
 しかしそうであるにしても、上記のように友人を現場でその体験に巻き込んで一瞬にして納得させられることもある。それは、誰にでも経験のある事実だ。「言葉で言うことはできない、しかし示すことはできる」のである。

諸問題の消滅

 「まえがき」の中で、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の価値について語っている。彼は、自分が書いた「思想の表現」には不十分な点があると認める。そして、表現は不十分だけれど、それでも「その核心にある真理は絶対に正しい」と断言する。

本書に表された思想が真理であることは侵しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。(野矢茂樹訳)

 『論理哲学論考』の思想がはらむ「真理」とは、決定的な体験は語れない、ということ。あるいは、語りえない決定的な体験がある、ということだ。
 その真理に逆らって、語れないことを語ろうとするから、うまくいかず、疑問や謎が生じてくる。哲学的問題は、そういう、言葉の限界を意識しないことから生じているのだ。つまり、どれもこれも「勘違いに基づいて発せられた疑問」に過ぎない。そんなもの、解く必要など、ない。黙って無視していればいい。
 このようにして、「あの決定的な体験はどうすれば語り伝えることができるか」という問題も解消された。解かれたのではなく、消えた。「問題はその本質においては最終的に解決された」。ウィトゲンシュタインは、「あの決定的な体験は、言葉では言えない。言おうとしてもムダ。そんなムダなことは、もうやめた。以上!」と宣言しているのである。

本書の価値の第二の側面は、これらの問題の解決によって、いかにわずかなことしか為されなかったかを示している点にある。(野矢茂樹訳)

 「決定的な体験は語れない」とわかった。しかし、そう結論を出したところで、その大事な体験についての理解が深まったわけではなく、それを実現する方法を得たわけでもない。一歩も前進していない。
(たとえば「ぼくは小心者だから、とても彼女に告白なんかできない」と悟ったとする。そうやって自分の限界を知ることは、ひとつの成果に違いない。「告白する/しない問題」はたしかにこれで答えが出た。しかし、その答え=問題解決によっては、実際の自分の恋愛(彼女との関係)は1ミリも前進することはない。この解決によってなされたことは、あまりにも「わずか」である。)

 とはいえ、「語れない」とわかったその了解を経て、「本当に大事なのは、語りえないあの決定的な体験である」と大切なもののありかを再確認できたなら、それが『論理哲学論考』の第二の価値だというのである。

限界への突進

 『論理哲学論考』の結論、その最終行は、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(野矢茂樹訳)である。
 では、ぼくらは、あの体験については口をつぐんでいなければいけないのだろうか。
 そうではない、それは誤解だ。
 ウィトゲンシュタインが言っているのは、あくまでも、あの体験については「論理的に意味ある話はできない」「哲学的な議論をするのはムダだ」という「だけ」のことだ。あの体験について、ウィトゲンシュタインは、ぼくたちに沈黙を強いているのではない。
 それどころか、意外なことに彼は、無理を承知で言葉が届かないものに向かって言葉を差し向け、言葉で指し示そうとする「無意味な努力」を褒めたたえている。無理を承知で言えないことを言おうとする、そんな馬鹿げた人間の傾向を、素晴らしい、尊敬する、と賛美するのだ。いくつかの言葉を別の本から引用しよう。

例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えてみよ。[略]我々がたとえ何かを言ったとしても、それは全てアプリオリにただ無意味でありうるだけなのである。それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。(黒崎宏訳)

 人間には言語の限界に向かって突進する傾向がある、と言っている。そして、その傾向についてこう語る。

私は個人的にはこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私はそれをあざけるようなことはしないでしょう。(杖下隆英訳)

私はただ、私は人間におけるこの傾向を笑い草にはしない、私はこの傾向に脱帽する、と言えるのみである。(黒崎宏訳)

 普通に見ればありきたりの風景、何の変哲もない日々のできごと、他人には値打ちのない自分だけの関心事。何が素晴らしいのか語りようもないそんなものが、しかし、ぼくたちひとりひとりには、生きる意味を知る貴重な体験をもたらしてくれたりする。そんな体験について語りたいと思う。誰かに伝えたい、伝わればいいなと願う。
 それならば、よし、言葉にはならないその決定的な体験について、無理を承知で、なお語ろうではないか。語れないものを指し示し、共有し、追体験しようと試みようではないか。失敗は覚悟のうえ、だ。うまくいかなくたって、きっとそれは、ウィトゲンシュタインの言うように素晴らしいことに違いない。

芸術的な表現

 でも、どうやって語ればいいのか?
 ここでぼくたちは、本稿第一節末尾の問題に立ち戻る。
 ただ目の前にある世界に驚かされる、あの語りようのない体験を、ぼくらはどうやって語ればいいのか?

芸術的な驚きは世界が存在することである。存在するものが存在することである。(奥雅博訳)――『論理哲学論考』刊行の6年前に書かれた覚え書き

 芸術的に表現する、そんな言い方は曖昧で陳腐だけれど、やっぱりひとつの答えになるのだろう。
 たとえば絵画は、花や山や人物を描く。しかし画家は、それらについて即物的に説明したいのではない。印象派の画家モネの言葉を借りるなら、「見えないものを表現するために、見えるものを描く」のである。
 この言葉を逆に読もう。「見えるものを描くことによって、見えないものを表現しよう」「つまらないものを描くことで、決定的なことを感じさせよう」というふうに。
 すると、『論理哲学論考』は一種の芸術作品として書かれている、と言えないだろうか。
 「『論考』は書かれたものと書かれていないものでできている。大切なのは後者だ」とウィトゲンシュタインは編集者宛の手紙に書いている。そのとおりだ。実際『論理哲学論考』という本は、「決定的な体験については語れない」と言っておしまいにしてはいない。語れないそれを感じさせようと努めている。
 最初に言ったように、普通に見れば『論理哲学論考』に書かれているのは、ひたすら言葉についての哲学的考察だ。そして結論は、決定的な体験については語れない、だ。こんなにも厳密に言葉を使って、つまらないと言えばつまらないことしか主張していない。
 しかし、不思議だ。
 それを読むぼくたちは、どういうわけかこの本から、言葉では言えない何かを感じ取っているではないか。

解放と希望と

 『論理哲学論考』を読むと、たとえ誤解だらけの素人読みであっても、感動を覚える。この世界から抜け出して行くような、少し恐いような爽快感だ。それは、言葉では言えない何かが、ウィトゲンシュタインからぼくたちへ伝わっている証しではないだろうか。
 伝えられないことが、それでも伝わっていく。
 ぼくたちは、語れないことでも、なお、指し示すことができる。
 意外なことだけれど、ぼくにとっての『論理哲学論考』は、そういう希望を与えてくれる本なのである。

 



引用は下記の本によりました。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳岩波文庫、2003年

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「草稿一九一四―一九一六」奥雅博訳(『ウィトゲンシュタイン全集1』大修館書店、1975年)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「論理形式について」奥雅博訳(『ウィトゲンシュタイン全集1』大修館書店、1975年)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「ウィトゲンシュタインとウィーン学団」黒崎宏訳(『ウィトゲンシュタイン全集5』大修館書店、1976年)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン「倫理学講話」杖下隆英訳(『ウィトゲンシュタイン全集5』大修館書店、1976年)

 

 

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