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はじめに 「できそこない」のためのブックガイド

筆者:岡 敦
題名:はじめに 「できそこない」のためのブックガイド(生きるための古典 2)
引用:岡敦『強く生きるために読む古典』集英社新書、2011年
初出:「日経ビジネスオンライン」2009年6月9日

 

 

 生まれて初めての外国旅行なら、きっと誰でも、二十四時間、緊張している。
 朝、シーツの中で目を覚ましても、ぼんやりと寝床の温もりを楽しんでいる余裕はない。すぐに頭の中で、その日これからの行動を予習し始める。訪れる場所、出会う人、起こるであろうあらゆることを想像するのだ。
 そして、それぞれの場面で口にすべき現地の言葉を一生懸命に組み立てる。こんな言い方をしたら誤解される……うまく通じるだろうか……身振りはこうして……よし、これで準備は完璧[かんぺき]だ!
 そうしてやっとシーツをはねのけ、スリッパに足を突っ込み、まるで戦いに赴くような覚悟で一日を始めるのである。

 ここは外国ではない、今は旅行中でもない。それなのにぼくは、毎日をそんな気持ちで過ごしている。
 もの心ついたときから、いつどこにいてもそうだ。異質な時空間に投げ込まれたような訳[わけ]のわからなさを感じ、頼りなく、不安と苛立[いらだ]ちに付きまとわれている。
 なぜだろう、人々が何気なく当然のように行っていることが、ぼくには理解も実行もできないのだ。
 誰もが熟知しているルールを、ぼくだけが知らずにいるのだろうか。みんなと同じことをみんなと同じようにしているつもりなのに、突然警笛が鳴り、鼻先にイエローカードを突きつけられる。そして、ぼくがひどい過ちを犯したと宣告される……。
 だから常に緊張を強いられる。あたりまえの日常生活を送るだけなのに、慎重に身構えていなければならない。おい、気を抜くな、油断をしたら足を取られて転倒するぞ!
 こんなにも無駄なエネルギーと時間を費やして、それでもなお、ぼくは間違える。今日も一日、失敗を重ねた。明日もきっと消耗していくだろう。
 生きること、日々の生活を繰り返すこと、ただそれだけのことが、ぼくにはとてもつらい。

武器と仲間

 いや、ぼくは特別なところなど何もない、ありふれた人間だ。ぼくが感じることなら、誰だって多かれ少なかれ同じように感じているはずだ。みんな、それでも耐え、あるいはくふうして、一日一日を乗り切っている。ぼくもがんばるしかない、みんなと同じように、持っているすべての力を傾けて。一生懸命、そうしているつもりだ。

 それでもやっぱり、ときどき駄目になる。
 あれほど慎重に準備した計画も進路も、ぼくの心の中の均衡も平穏も、ぼくの生、この世界、ぼくに関わる何もかもが破綻[はたん]してしまう。

 ぼくの頭の中で、そのとき静かに、惨めな確信が生まれる。
 ぼくは人間の根本的なところが、できそこなっているのだ。
 こんな「できそこない」は、いないほうがいい。
 さあ早く消滅させてしまえ。

 いや、ぼくは死にたくない。
 何もかもおしまいにしようなんて望まない。
 
 だからぼくは、「消滅へ誘う自分」と戦う。
 「そいつ」を論破して追い払え。自分や他人や社会や世界について、どんなふうに見て、感じて、考えれば、ぼくはこれからも生きていけるのか、「そいつ」に言って聞かせろ。強い感情で圧倒してねじ伏せるんだ。鮮やかで絶対的な感覚によって、反対に、ぼくの生を肯定させてやろう。
 絶対に負けない。
 絶対に負けられない。

 だいじょうぶだ、と自分に言い聞かせる。
 この戦いに臨むとき、ぼくは素手ではない、強力な武器がある。
 ぼくひとりではない、頼りになる仲間がいる。

 武器と仲間。
 それは、たとえば「本」だ。
 本がなければ、ぼくは生き延びてこられなかった。
 本は戦い方を教えてくれる。
 戦うエネルギーを与えてくれる。
 本はぼくの大事な武器であり、ともに戦い抜いてきた盟友である。

 ぼくは本を、自分が生き延びる助けになるように読む。無能で不器用で余裕がないから、それしかできない。
 だから、ぼくの読み方には強いバイアスがかかる。読みが浅い。あるいは反対に、どうでもいい細部に過剰な読み込みをする。ぼくの理解や解釈を聞けば、笑い出す人もいるに違いない。
 けれども、「できそこない」のぼくに必要なのは、そんな読み方なのである。

マルクスの『資本論』

 たとえば、自分が考えていることや感じていること、あるいは使っている言葉が、どうしても周囲の人々と一致しないことがある。話をすり合わせようと気を使えば使うほど、ズレは決定的になっていく。まるで違う文法、異なった語彙[ごい]を用いて話しているのかと思うほどだ。物の見方、価値観、判断基準が衝突する。時間が前へ進まない。
 こんなときは、どうしたらいいだろう。
 いっそのこと周囲の人々の話などすべて蹴散らして、大声で自分を押しとおそうか。それとも反対に、理解も納得もできないまま黙って目をつぶり、ロボットのように人々に従っていればいいのか。
 二つの選択肢の間で、気持ちが大きく不快に揺れる。さあ、どちらを選ぶ?

 そんなとき、マルクスの『資本論』を思い出してはいけないか。

資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。(岡崎次郎訳)

 これは『資本論』第一部第一篇第一章の冒頭だ。マルクスは「~として現れる」と書いている。そして、その「現れ」を前提にして、話を進めようとしている。
 同じように文末に注意して第一章を読んでいくと、「~として現れる」「~のように見える」「~として表現される」といった書き方がたくさん出てくることに気づく。
 なぜだろう。
 なぜマルクスは、そんな書き方をするのだろう。

 亡命中の思想家マルクスは、いつだって無理解に悩む少数派だった。境遇はもちろん、価値観だって社会観だって人間観だって独特だった。おそらく周囲の誰とも話が噛[か]み合わなかっただろう。
 だから彼は「資本主義とは、コレコレこういうものだ!」と自分固有の見方を全力で相手の顔の真ん中にぶつけるような言い方はしない。それは一瞬の爽快感をもたらすかもしれないが、和解不能の意見の相違を際だたせて、あとには埋めようのない断絶を残すだけだから。
 マルクスは、ひとまず自分の主張を控える。心の底では納得していないけれど、周囲の人々の見方や意見を「とりあえず」認め、みんなのルールに則って議論を進めることにする。

 「わかった、資本主義社会の中で生きるあなたたちの目には、事態はこのように見えているんだね」とマルクスは話の口火を切る、「ということは、こういう理屈で成りたっているってことだ。とすると、やがてこういう困ったことになっていくのだけれど……」。

 まず周囲の人々の見方に乗り、その延長上で矛盾を明らかに示し、最終的に否定する。断絶を避け、周囲に合わせながら、ついには自分の意見を納得してもらうのだ。
 これが、話が通じない相手と、なおも対話を進めるためのマルクスの方法だ。
 『資本論』はもちろん経済学の古典だが、ぼくは勝手に「意思の疎通が難しい状況での対話の進め方」を教わっているのである。

「生きること」と本

 また、プルーストの『失われた時を求めて』を開く。

われわれがくらがりのなかで生きているこの人生があかるみに出され、われわれがたえずまちがってゆがめているこの人生がありのままの真実に連れもどされる、要するに、この人生が一つの書物のなかで現実化される、そういうことが可能であるように私に思われるいまこそ、なんとますます人生は生きるに値すると思われることだろう!(井上究一郎訳)

 静かに本を閉じ、プルーストといっしょに考えをめぐらせる。
 ぼくらの生の中には、生きることが肯定されるような美しい感覚や回想がある。
 そして、それを呼び起こす絵画や音楽、手紙、会話、そして本がある。
 そうだ、確かにある。
 「できそこない」のぼくが生き延びるために必要なのは、そういうものなのかもしれないと思う。
 感覚と言葉。
 「生きること」と本。
 そういう関係にそっと指を触れると、ぼくも、たとえ「できそこない」だとの想いに打ちのめされる日であっても、あらためて生きなおすことができるそうな気がしてくる。

まともな知識は提供できない

 時には困難を乗り越える際の武器、また時には生を肯定するきっかけをいっしょに探してくれる仲間。それがぼくにとっての本だ。
 だから、客観的に正しく読むつもりは、まったくない。ちょうど、古い友人やかけがえのない恋人が「客観的にどんな立場の人か」なんて、どうでもいいように。

 そんなふうに読んできた本を材料にして、ぼくはこの文章、この本を書いている。「ぼくの人生における、ぼくと本との関わり合い」の記録のようなものだ。
 だからこの本は、古典的な書物やその著者について、まともな知識を提供することはできない。「古典入門」にも「名著解説」にも「読書マニュアル」にもなっていない。
 この本を読む人は、きっとあきれるだろう。
 こんなにも立派な書物を材料にしながら、おまえは何て貧しい内容の文章を書くのか。
 馬鹿げている、つまらない、読むんじゃなかった、ふざけるな!
 そう怒られてもしょうがない。

 でも、もしかしたら、と思う。

 読者の中にも、ぼく同様の「できそこない」がいるかもしれない。
 そして「できそこない」に課せられた日々の愚かしい戦いを、武器も持たず、たったひとりで戦い続けているかもしれない。
 もしそうなら、この本は、その人のために、少しは力に成れるだろうか。

 ほんの少しだけでも力に成れれば、と思う。
 この本を読んで一瞬でも微笑[ほほえ]んでくれたら。
 かすかでも、仲間意識を持ってくれたら。
 あるいは、この本が言及している優れた書物を手に取り、ぼくなんかよりもっとじょうずに活用してくれるだろうか。
 もしかしたらこの本を、自分の生を肯定するような強く美しい感覚に遭遇するきっかけにしてもらえるのではないか……。

 そんな想像をする。
 ぼくの勝手な妄想だ。
 いい気なものだ、と自分でも思う。
 でも、そんな妄想を信じて、ぼくはこの本を書いているのである。

 

 


引用は下記の本に拠りました。
カール・マルクス『資本論』(『マルクス=エンゲルス全集』第23巻 第1分冊)岡崎次郎訳、大月書店、1965年

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(第1巻)井上究一郎訳、ちくま文庫、1992年

 

 

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