筆者:岡 敦
題名:ぼくが生まれた日の父のこと(すべてはいつか、笑うため。 3)
初出:月刊『Hanada』2020年8月号
ぼくはときどき考える、ぼくが生まれた五月の朝、いったい父はどこにいたのだろう。
初めてのこの世の昼と夜を過ごし、翌日が暮れ、翌々日も暮れて……やがて母とともに産科病棟から家へ移る日が来る、そのときになってもまだ、父は自分のふたりめの息子、ぼくの顔を一度も見には来なかったという。
父はどこにいて何をしていた……仕事が忙しかったのか、何か切羽詰まった事情があったのか、それとも……
そのことは、母に聞いてもわからない。
若かった母はひたすら夫を待ち、待ち続け、それでも訪れることのない夫の気持ちや考えがわからなくなったと困惑し、最後には怒っていた、あの人は生まれてくる子を愛していないのか、と。
退院し家に戻ったその夜に、母は、それゆえ父をなじり、強い調子で問うたという、愛せない子供を、どうして作ったのだ。
父は答えた、ふたりめの子供ができてしまえば、おまえはもう離婚を考えられなくなるだろう、別れずにすむと思ったからだ……
ぼくが生まれた日のことを母に尋ねる、すると、そのたびにこんな話を聞かされる。
やれやれ、とぼくは思う、生まれて初めて自分の家で過ごした日、初めて父と対面したそのときに、ぼくはさっそく、あなたたちの口論と別れ話を聞かされていたんだね……
借金の返済に困り、幼い長男を連れて九州から夜逃げしてきた夫婦。以来、父は恐れていた、こんな暮らしをしていては、いつか妻は俺を捨て、長男の手を引いて家を出て行くだろう。そうだ、もうひとり赤ん坊ができれば、そう簡単には出ていけないはずだ……父はそんなふうに考えたのだろうか。
母はそう言う、はっきりとではないけれど、遠回しにぼんやりと、あの人はふたりめの子に愛情を持っていなかったと、それが母の結論のように。
そうかもしれないが……しかしそうだったろうか……とぼくは母の話を素直に聞くことができない。父の顔、父の声を頭に浮かべる、父の話し方、ぼくに対する接し方を想い起こすと、父の心をどう受け取るべきか、ぼくはわからなくなってしまう。
いつどんなときでも父は本心をあらわにすることはなかった。自分の考えを素直にそのまま言葉にするなんてありえなかった。根掘り葉掘り話を聞いても、どこまでも得体の知れない人だった。
だから、父があの時ああ言った、こんなことを話したと聞かされたところで、それだけでは、彼の本心などぼくにはまったく想像もできない。そのように見えた、ということでしょう? それだけのこと、あのひとの本心はわからないよね……
父は静かな人、穏やかな人だった、いつも、とても。人生や日々の生活のいろいろな局面で、たとえどれほど追い詰められる事態になったとしても(いつも追われていたのだ、経済的にも家庭的にも)、慌てたり、大声を上げたり、手を出したりすることはない。苦しさのあまり、逆に怒りだすとか、居直ろうとか、そういったまねさえもしなかった。
いや、できなかった。
穏やかというよりも……それほどまでに気が弱かったのだろう、いつも周囲をうかがうウサギのように怯えた目をしたひと……
そんな父は、話している相手がいきりたち、激してくると……そして弁解も抗弁もできなくなると、窮地から逃れようとして、しばしば「変な手」を用いていた。
父はとっさに相手の意表をついた言葉を口にして、煙に巻いてしまうのだ。頭を混乱させて、どう対応してよいのかわからなくさせ、黙らせる……ちょうど命の危険を察知した小動物がおのれの姿や行動を一変させ、捕食者を戸惑わせてその場を脱するように。それが、父が身につけた窮地脱出の方法。いつもいつもそんなふうにして、父は修羅場から逃れようとしていたのだった。
ぼくが生まれてすぐ、母に問い詰められた日の父の返事も、だからぼくは真に受けることができない。「子供を作ったのは離婚を防ぐため……」という父の言葉は、やはりいつもの、その場しのぎの「意表をつく言葉」だったのではないか、と思う。
生まれてくる子への愛情があるとかないとかではなく、離婚になるのを恐れていたとか、そんなことですらなく、ただただ、そのとき激怒した妻が喉元へ突き付ける矛先をいったん逸らし、間をとり、破局を先延ばしするため、ただそれだけのために発せられた、ひとかけらの真実も本心も含まれない、単なる舌先の返答だったのではないか……
実際、そのとき母は絶句して、父はその難詰の場からの脱出に成功しているのだった。
付記
2020年6月初め、病気療養中の兄(岡康道)に代わって私が書いた文章です(私の名で掲載されました)。
兄のエッセイや小説では、しばしば「父」が主題となります。ここではそれに関連することを書きました。
(C) 2022 OKA ATSUSHI