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中学生のニーチェ読解

筆者:岡 敦
題名:中学生のニーチェ読解(すべてはいつか、笑うため。 2)
初出:月刊『WiLL』2011年8月号

 

 中学三年の終わり頃、ニーチェの『善悪の彼岸』を手に取った。
 哲学の本などほとんど読んでいなかったくせに、(おそらく高校生の兄に感化されて)ぼくはニーチェを神格化していたから、「いよいよあのニーチェを読むのだ」という期待と不安と、それに生意気な子供の少し誇らしい気持ちとで胸がいっぱいになった。これからぼくはどれほど難解で深遠な文章に出会うのだろう、いったい最後まで読み通せるものだろうか……。 
 しかし、読み始めてみると、その文章は想像していたよりもずっと易しく感じられた。ゴツゴツした哲学用語もあまり出てこない。「うん、読める」と自分がニーチェを読んでいること自体に感動しながらページをめくっていき、数日後に読了した。
 最後の一文を読み終えて本を閉じた、その瞬間のことを、ぼくは今も忘れない。心底、驚いたのだ。
 「ぼくの頭は空っぽだ!」と。
 
 一語もおろそかにしないで着実に読み進めてきたはずだった。読み飛ばしも読み間違いもないと思っていた。それなのに、ぼくはこの本をまったく理解できていない。そう気がついて愕然とした。
 そして少しの間を置いて、こういうことがあるんだなあと感心してしまった。あたりまえだが、個々の言葉や個々の文の意味が理解できたとしても、そもそも著者の執筆意図を知らず、著者の論敵の姿が見えていなければ、文章全体は決してつかめるものではない。そして文章全体がつかめなければ、結局、一語だって本当にはわからないのである。
 そういうことを思い知らされた。ぼくにはとうてい登れない高い塔の上にニーチェはいるのだとわかった。だから、それはそれで大きな収穫だった気もして、自分の読解力のなさに失望したというより、むしろ清々しく、充たされた気持ちになった。
 スポーツの試合で天才的な選手と対戦して完敗し、自分は無能だ、ゼロに等しいと悟らされた選手が、それでも笑顔で試合場を後にするときは、もしかしたらこんな気分ではないだろうか。
 
 この失敗で自分の読解力の限界を知ったので、次はもう少し易しい本を読もうと思い、「ニーチェ自身によるニーチェ入門」とも呼ばれる『この人を見よ』を選んだ。しかし、いくら「初心者向け」であるにしても、基礎知識も経験も足りない中学生には、やはり理解できるはずがない。結局、本の趣旨とは関わりなしに、ニーチェの言葉の断片を「格言」のようにして記憶に留めただけだった。
 
 それから三十六年を経た今年〔執筆時は2011年〕、三月十一日の東日本大震災の後に、そんな「格言」のひとつをぼくは思い出していた。
 「すべての決定的なことは『それにもかかわらず』起こる」という言葉だ。
 この言葉を記憶したとき、中学生のぼくは、そこから勝手に「三つの考え」を学んでいた。

(1)ひとつは、「人間がどれほど知恵を働かせたとしても、それでも事は起こってしまうものだ」という運命論のような考えだった。人間の期待や努力には、決定的な事柄を防ぐ力などない。人間の思惑など無に等しい。そんなふうに冷ややかな目で眺めよ、と言われているようにも思われた。

(2)もうひとつは、「想定して対策を講じていた『にもかかわらず』起きるなら、それは人間の想定を超えている出来事なのだから、人間社会に決定的に重大な事態をもたらすに決まっている」。つまり「想定外のこと」と「決定的なこと」は同義である、同語反復的である、という論理的でもあり皮肉でもある受け取り方だった。

 巨大地震とそれによる津波の被害を伝える映像を見るたびに、ぼくは(1)を思い出した。そして、原発事故のニュースを聴くたびに(2)を思い出していた。
 いずれを想起するにせよ、気持ちはひたすら沈んでいく。「人間の思惑を軽々と超える暗く圧倒的な現実の力を受け容れよ」と命じられているようなものだから。あの日以降ずっと続いている、まるで地球壊滅を描くSF映画のような状況を、とても理解はできないけれど、それでもぼくたちは、これがわれわれの現実だと受け容れるしかない……千年に一度の大津波……この原発事故はチェルノブイリ級だ……こんな調子では、いつまで経っても復興できない……。

 そうして目を伏せ、気持ちがしゃがみ込みそうになった頃、ぼくは「すべての決定的なことは『それにもかかわらず』起こる」という言葉から得た、中学生のぼくの三つ目の思考を思い出した。
 それは、(3)想定を超えて起こる「決定的なこと」は、悪いこととは限らない、という肯定的な解釈だ。
 人がどんなに絶望しても、そんな気持ちなどおかまいなしに、決定的に素晴らしいことが起こる。打つ手はすべて失敗し、専門家の予測では壊滅不可避であるとしても、素晴らしいことが「それにもかかわらず起こる」のである。
 だから、大丈夫。もう可能性など何一つ残されていないと思われるとき、そのときにこそ、きっと、ぼくらの再生への歩みが始まるだろう……。

 
 あの春の重い空気の下、浅くいいかげんな中学時代のニーチェ読解が、ときどき、こんなふうに頭の中によみがえってきて、そのたびにぼくは、少しだけ励まされていたように思う。
 
 
付記
この文章を書いたのは2011年6月初め、東日本大震災から三か月も経っていない頃でした。
中学生の時に読んだ『善悪の彼岸』は竹山道雄訳(新潮文庫)、『この人を見よ』は手塚富雄訳(岩波文庫)でした。

 


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